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千葉地方裁判所 昭和50年(ワ)322号 判決 1988年11月17日

第一分冊

目次

主文

事実

理由

第一章証拠関係

第二章当事者

第三章侵害行為

第一侵害行為

第二大気汚染状況

第三主要汚染源性

第四考察

一いおう酸化物

二窒素酸化物

三浮遊粒子状物質

四測定局の地域代表性

五三物質以外の大気汚染物質

六塚谷恒雄による統計的グラフ解析

七平均流線を用いた大気汚染の解析

八産業公害総合事前調査

九主要汚染源性

第四章健康被害

第一総論

第二健康被害

第五章因果関係

第一総論

第二本件疾病と大気汚染

第三疫学調査

一疫学調査

二環境への影響と呼吸器疾患の多発

三四七年市学童調査

四四五ないし四七年県学童調査

五四七年BMRC調査

六四九年BMRC調査

七四六年千葉大調査

八四七年郡司調査

九五〇年基礎調査

一〇まとめ

第四環境行政

一環境基準

二補償制度

三公害防止対策

第五個別的因果関係

第六章責任原因

第一大気汚染防止法二五条一項の規定による責任

第二民法七〇九条の規定による責任

一立地及び操業開始の過失

二操業継続の過失

三故意

第七章差止請求

第一操業差止請求

第二排出差止請求

第八章損害賠償請求

第一総論

一一部請求

二一括請求

三一律請求

四補償制度

五その他考慮すべき事情

六損益相殺

七弁護士費用

第二個別的損害額

第三消滅時効

第九章結論

第一排出差止請求

第二操業差止請求

第三損害賠償請求

第四訴訟費用の負担

第五仮執行の宣言

(昭和五〇年(ワ)第三二二号事件関係)

原告

稲葉正

外九三名

(昭和五三年(ワ)第二七五号事件関係)

原告

秋山雅史

外一〇三名

原告ら訴訟代理人弁護士

三橋三郎

外五八名

被告

川崎製鉄株式会社

代表者代表取締役

八木靖浩

訴訟代理人弁護士

小川徳次郎

外一二名

主文

一  第二分冊別紙目録一差止原告(住所地)一覧表記載の原告ら及び同目録二差止原告(勤務地及び勤務先)一覧表記載の原告らの「第二分冊事実の部第一章の第一の第二項」の訴えをいずれも却下する。

二  第一項の原告らの「第二分冊事実の部第一章の第一の第一項」の請求をいずれも棄却する。

三  被告は原告阿部松枝に対し金一三六万四三〇〇円及びこれに対する昭和六一年二月一三日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

四  被告は第一分冊別紙損害賠償請求者目録記載の「第一認容の部」の「原告氏名」欄記載の原告らに対し各氏名下の「認容額」欄記載の各金員及びこれらに対する昭和六二年五月二七日から各支払済に至るまで各年五分の割合による金員を支払え。

五  原告阿部松枝及び第四項の原告らのその余の損害賠償請求をいずれも棄却する。

六  第一分冊別紙損害賠償請求者目録記載の「第二棄却の部」の原告らの損害賠償請求をいずれも棄却する。

七  訴訟費用のうち第一項及び第六項の原告らと被告との間に生じたものは全部同原告らの連帯負担とし、第三項及び第四項の原告らと被告との間に生じたものはこれを一〇分してその一を被告の負担とし、その余を同原告らの連帯負担とする。

八  この判決の第三項及び第四項はいずれも仮に執行することができる。

事実

当事者双方の申立て及び主張並びに証拠関係は、第二分冊事実の部第一章ないし第三章に記載したとおりである。

理由

第一章証拠関係

第二分冊理由の部(以下「理由の部」と略称する。)第一章の第一書証、第二人証及び第三検証に記載したとおりである。

第二章当事者

理由の部第二章の第一原告ら、及び第二被告に記載したとおりである。

なお、原告高橋和寿、同井形亜矢子及び同西藤陽一は、いずれも口頭弁論終結時(昭和六二年五月二七日)に成年に達していた者であり、原告秋山雅史及び同林正樹は、いずれも口頭弁論終結後で判決言渡時までに成年に達した者である。

第三章侵害行為

第一侵害行為

理由の部第三章の第一被告の操業の推移、及び第二汚染物質の排出行為に記載したとおりである。

第二大気汚染状況

理由の部第四章の第一バックグランド濃度、第二環境基準、及び第三大気汚染測定結果に記載したとおりである。

第三主要汚染源性

理由の部第五章の第一発生源と排出量、及び第二測定結果からの汚染源の検討に記載したとおりである。

第四考察

一いおう酸化物

1 原告稲葉正の作成に係る測定記録等について検討するに、<証拠>によれば、次の事実を認めることができ、その認定を左右するに足りる証拠はない。

(一) 原告稲葉正は、妻の協力を得ながら、ヨード滴定法という測定方法を用いて、自宅等における亜硫酸ガスの濃度を測定し、そのうち昭和四六年三月二五日から昭和四七年七月一八日までの測定結果を測定記録一号(甲B三三号)に、同月一九日から昭和四八年一一月二五日までの測定結果を測定記録二号(甲B三四号)にそれぞれ記録した。

(二) また、千葉県立千葉高等学校の公害研究クラブは、原告稲葉の指導を受け、他の生徒及び教員の協力を得て、同じヨード滴定法により同高校及び県立千葉工業高等学校等における亜硫酸ガス濃度を測定し、その測定結果に基づいて昭和四六年版公害白書(甲B五九号)及び昭和四八年版公害白書(甲B六〇号)を作成した。

(三) ヨード滴定法の原理は、「亜硫酸ガス(SO2)を含んだ空気を炭酸ソーダ溶液(Na2CO3)に通し、これによって生じた亜硫酸ナトリウム(Na2SO3)又は亜硫酸水素ナトリウム(Na2HSO3)をヨウ素(I2)滴定で求める。」というものであり、その測定方法は、「試験管に、一リットル当たり0.1モルの炭酸ソーダ溶液一五ミリリットルを加え、捕集器にセットし、三〇分ないし一時間、試料空気の泡を吹き出させ、この溶液に一リットル当たり一万分の二モルのヨード液を滴下して、それに要したヨード液の量から大気中の二酸化いおうの量を測定する。」という方法である。

原告稲葉らが採用したヨード滴定法は、通商産業省工業技術院化学技術研究所主任研究官天谷和夫がいおう酸化物濃度の簡易測定法として開発したヨード滴定法に基づいて、千葉県高等学校教職員組合、同公害対策委員会がその方法を解説し、推奨した測定方法であるが、大気中の二酸化いおう濃度について一〇〇万分の一又は一〇億分の一という極めて微細な量を測定の対象とするものであるのに、その測定方法は、「一万分の二ノルマル濃度のヨード液は、薄くて不安定である。大気中の炭化水素又は酸素等が反応に影響を及ぼす。試料の大気を採取する際に、気温等によって量が異なることが多い。滴定量を読み取るのに誤差が生ずる。」という点に難点があり、これによる誤差を無視することはできない。

(四) 前記(一)の測定記録及び(二)の公害白書に記載された測定値のうちには、近接の測定局末広中学校、寒川小学校、蘇我中学校及び蘇我保育所等における各測定値との間に隔たりのあるものが少なくない。

したがって、甲B三三、三四号、六〇号に記載されている各測定結果は、いずれもたやすく採用することができない。

2 いおう酸化物濃度の測定方法について、PbO2法と溶液導電率法のいずれを採用すべきかの点については、どちらかを一方的に採用するというのではなく、二つの方法による測定値を比較して、合理的な数値を見出し、これによって汚染の実態を見ることとするのが相当である。

3  本件地域における大気汚染状況は、年平均値を指標とする場合には、我が国の各都市と比較して特に高い値を示すものではないが、一時間値及び日平均値を指標とする場合には、我が国の各都市及び環境基準と比較して、いずれも高い値を示し、高濃度の集中的汚染がしばしば出現していたということができる。

二窒素酸化物

1  窒素酸化物の高濃度汚染が出現した時には、窒素酸化物濃度と二酸化いおう濃度との間に相関関係があったものと認めるのが相当である。

2  自動車排出ガスによる大気汚染等の沿道住民への健康影響に関する実態調査によれば、窒素酸化物濃度は、道路から隔たる距離が大きくなるにつれて減衰し、道路端から概ね二〇〇メートル隔たる地点においては、その影響をほとんど受けないものと見ることができる。そうすると、測定局福正寺、同蘇我中学校及び同寒川小学校においては、国道一六号線を通行する自動車の排出ガスによる影響をほとんど受けなかったものと推認することができるのであり、また、右の各測定局の近傍を通る旧国道等の交通量については、これを的確に認定するに足りる証拠がないのであるから、そこを通行する自動車の排出ガスによる影響を取り上げて考察することは相当でないものというべきである。

株式会社数理計画による二酸化窒素発生源別寄与濃度の推定は、それが拡散シュミレーションによるものであることに照らし、汚染の実態を的確に把握した上での推定であるとは言い難い点がある。また、川崎市における固定発生源に対する移動発生源の窒素酸化物の排出量及び汚染寄与率については、その排出量比が本件地域における排出量比と近似しているのであるが、その拡散計算に当たっての前提条件が異なるのであるから、その汚染寄与率をそのまま本件地域に当てはめるのは相当でない。

七大都市自動車排出ガス規制問題調査団の報告、神戸市環境局公害対策部の研究調査報告及び大阪府公害防止計画プロジェクトチームの報告は、いずれも本件地域とは異なる都市における調査結果の報告であるから、右の各報告による移動発生源の寄与率の数値をそのまま考察の基礎資料として採用するのは相当でない。

3 窒素酸化物濃度の変化状況は、いおう酸化物濃度の変化状況と対比して、一般に(一)季節により、(二)一日の時間帯により、(三)風向により、(四)風速によりそれぞれ異なった傾向を示している。そして、測定局福正寺における昭和四九年度の測定値を年間平均値をもって解析すると、窒素酸化物濃度の変化状況は右の一般的傾向を示している。しかし、右のような福正寺における一般的傾向は、窒素酸化物濃度と二酸化いおう濃度との間の相関関係が顕著であると認めることができる日にも現れることなどから見て、前記1の相関関係があるとの認定を左右する事由には当たらないものというべきである。

三浮遊粒子状物質

1  千葉製鉄所周辺の測定局における浮遊粉じんは、直径八ミクロン以下のものが総重量の八〇パーセントを超えていたのであるから、浮遊粒子状物質の測定が行われる以前においては、浮遊粉じんの測定値をもって浮遊粒子状物質濃度の近似値であると見て差し支えないものということができる。

2 もっとも、<証拠>によれば、「千葉県においては、昭和五七年に至っても、光散乱法(デジタル粉じん計)による濃度(相対濃度)測定の方法を採用していたので、ロー・ボリューム・エアー・サンプラーによる濃度(重量濃度)との比による係数(F値)を求めることに問題点を抱え、相対濃度を重量濃度へ換算する方法を確立していなかったため、環境基準との比較評価を行っていなかった。」事実を認めることができる。

3 しかし、浮遊粉じんの測定値のみをもってしても、濃度の高低、集中の程度等に関しては、大気汚染の状況を判定することができる。

四測定局の地域代表性

1 前田和甫の証言によれば、大気汚染測定局が設置された当時においては、「測定局の測定値は、その周囲の地域全体の汚染濃度を示すものであり、それが地域全体の暴露量である。」として取り扱われ、その後においてもそのように取り扱うのが当たり前であるとされてきた事実を認めることができる。

2 ところが、<証拠>によれば、次の事実を認めることができる。

(一) 千葉県公害研究所大気第二研究室長伊藤道生ほか四名は、昭和五二年度に環境庁から「空気汚染による人体の窒素酸化物暴露量に関する研究」を委託され、昭和五三年三月その「研究報告書」を作成して、これを提出した。その調査目的は、「主婦の日常生活を念頭に、空気汚染による主婦の窒素酸化物暴露量を濃度的、時間的及び量的に可能な限り把握し、大気汚染レベルとの比較並びに大気汚染の影響への寄与程度等を考察しておくこと」にあった。

これを契機として、室内の窒素酸化物濃度を中心に、二酸化窒素の個人暴露量に関する研究が盛んに行われるようになった。

(二) 東京大学医学部疫学教室教授前田和甫も、ほか三名と「二酸化窒素の個人暴露濃度に関する研究」を行い、昭和五七年八月その研究結果を「日本公衆衛生雑誌」に発表した。その結論は、「二酸化窒素の個人暴露濃度を規定する要因としては、二酸化窒素の室内濃度の影響が大きく、自宅室内とオフィス室内を合わせると、室内での暴露は平均七割から八割以上と推定された。対象者世帯の室内濃度と室外濃度の関連性は季節によって変化し、非暖房期には両者に相関関係がみとめられ、一般に室内と室外の濃度比は一以下であった。暖房期には室内濃度と室外濃度の関連性は小さく、開放型ストーブの使用している場合には、室内濃度は大部分、開放型ストーブの使用時間によって規定されていた。」というものであった。

3 しかし、2の研究結果については、いずれも個人暴露量を見るのには、室外濃度のほかに室内濃度を加味すべきであるというにとどまるものであって、前記1のような取扱いと矛盾するものではなく、むしろ、その取扱いを前提としているものと見ることができる。また、前田の証言によっても、「個人暴露量を的確に把握する方法は、いまだ確立されておらず、そのようなことを実施することは、事実上不可能である。」事実を認めることができる。

したがって、ある測定局の測定値は、その周辺地域の汚染濃度を示すものであって、その地域全体の暴露量を示すものであると見ることには合理性があるものというべきである。これに室内濃度を加味すべきであるとするかどうかは、別個の問題である。

五三物質以外の大気汚染物質

請求原因三の1の(四)(三物質以外の大気汚染物質)の事実は、当事者間に争いがない。

しかし、原告らは、千葉製鉄所が三物質以外の大気汚染物質を大気中に排出していると主張するにとどまって、どのくらいの濃度のものが本件地域に着地しているのかについては何ら主張せず、立証もしない。

したがって、三物質以外の大気汚染物質の排出については、これを被告の侵害行為に当たるものと認めることができないものというべきである。

六塚谷恒雄による統計的グラフ解析

1 塚谷恒雄が二酸化いおうによる大気汚染の状況について行った統計的グラフ解析は、理由の部第五章の第二の二の4に記載したとおりである。

被告は、塚谷による統計的グラフ解析、すなわち塚谷の証言、甲B一九三号の一、二及び同二〇四号は、いずれも合理性を欠くものであって、科学性、客観性を有しないと主張する。

2 ところで、塚谷は、千葉県と千葉市が保有していた測定結果のうち、一年間にわたる八七六〇個(ただし、欠測もある。)の測定値を抽出して、大気汚染の状況を解析したのであり、更に、甲B一九三号の一、二及び塚谷の証言によれば、塚谷は、解析に当たって、事前に、(一)各測定局の位置、測定器の保守管理の状況、測定値の正確性等測定局に関する調査、(二)大気汚染防止法の規定に基づいて千葉県、千葉市、市原市、東京都、神奈川県、横浜市、川崎市等に届け出されていた資料による東京湾沿岸全域における発生源の分布状況に関する調査、(三)東京湾全域における気象及び限局的地域における気象に関する調査を行った上、個々の測定値につき数人の協力者と討議をしながらマークを付けるべきものを判定し、八七六〇枚の「千葉・市原地区SO2汚染地図」を作成した事実を認めることができる。

3 そして、甲B一九三号の一、二及び塚谷の証言によれば、塚谷は、「汚染地図」にマークを付けるに当たっては、「千葉製鉄所からの汚染でないことが分かれば、マークを付けない。千葉製鉄所からの排煙に、市原からの排煙又は東京湾からの排煙が重畳されている場合でも、マークを付ける。千葉製鉄所からの排煙との仮説を否定できないものにもマークを付ける。」という基準を採用し、千葉製鉄所からの排煙だけを取り出してマークを付けたものではなかった事実を認めることができ、また、塚谷の証言によれば、塚谷は、マーク付けの判定に当たって、測定局衛生研究所の測定値を、「風向風速計が周辺の高層の建物によって影響を受け、その測定値に信頼性がない。」との理由で採用せず、測定局山王小学校の測定値を、「その周辺に高濃度の出現に影響を与える発生源が存在する。」との理由で採用しなかった事実を認めることができる。

4 しかし、塚谷が採用した解析の手法には、それなりの合理性があるものと認めることができるのであって、塚谷の証言に照らせば、解析の結果も、それなりにこれを信用することができるものというべきである。

ただ、その解析の結果による「寄与率」は、千葉製鉄所に起因する物理的汚染の寄与を示すものではなく、その他の汚染源による汚染に重畳した結果としての寄与を示すものである。

したがって、塚谷の証言によれば、千葉製鉄所の寄与率は、「大雑把に言って、桜木小学校で五割から六割位、衛生研究所で一割位、寒川小学校で八割から九割位、末広中学校で七割から八割五分位、蘇我中学校で二割から四割位、福正寺で八割から九割程度である。」というのであるが、その数値については、これを参考資料にとどまる程度のものと見るのが相当であって、これを寄与率そのものを示すものであると見るのは信用のし過ぎであり、相当でない。

七平均流線を用いた大気汚染の解析

1 近藤充輔らが千葉市南部地区の大気汚染の原因について流線解析の方法を用いて行った解析は、理由の部第五章の第二の二の5に記載したとおりである。

これによれば、「南西系の風による汚染が他の風系に比べて圧倒的に大きく、これは各工場単独の影響では汚染をもたらさないが、それらが重合する条件の下において汚染が生ずることを意味する。すなわち、千葉市南部における二酸化いおう汚染は、主として京葉臨海工業地帯に立地する工場群の排煙が一直線上に重合することによってもたらされたものであることが分かる。」というのである。

2 しかし、右の解析については、次のような問題点がある。

(一) 解析の資料としたものは、約七〇の測定局における風向、風速の測定値と二酸化いおう濃度の測定値にとどまっていて、汚染物質を排出する煙源の位置及び排出量等については、これを考慮していない。図面一八には主な工場の位置と臨海工業地帯が表示されているが、これだけでは十分でない。

(二) 風向別平均流線方式と風向クロス表方式を採用して平均流線を推定したというのであるが、塚谷恒雄の証言に照らしても、異なる日時の風向・風速の測定値を平均化した上、これを二次曲面式に代入して平均流線を推定するという方法には合理的でない点があるのであって、この方法によって推定された平均流線は机上の流線に過ぎず、現実の風の流れを示すものではないということができる。

また、<証拠>によれば、近藤らが採用した「距離の関数を重みとする加重平均による補間法」でメッシュ点の濃度を推定するという方法にも問題があるということができる。

要するに、風向・風速の測定値を平均化し、二酸化いおう濃度の測定値を平均化してしまったのでは、局地的な特徴を失わせることとなって、汚染の実態を正確に把握したことにならないものとなる。

3 そして、右の解析は、千葉製鉄所からの排煙が本件地域の大気汚染にどの程度の寄与をしたかについては、これを明らかにしていない。

<証拠>によれば、京葉臨海工業地帯における大気汚染物質排出量と千葉製鉄所の排出量及びその割合は、別表六四記載のとおりである事実を認めることができ、<証拠>によれば、千葉製鉄所と東電千葉火力発電所から排出されたいおう酸化物の量は、昭和四一年に一三六〇トン(月)と一四二〇トン(月)、昭和四四年に一四九九Nm3(時)と七六六Nm3(時)であった事実を認めることができる。

しかし、別表六四記載の千葉製鉄所の排出比率がそのまま大気汚染への寄与率に当たるものと見ることはできないし、せいぜい千葉製鉄所と東電千葉火力発電所との排出量比を参考資料とすることができるにとどまるものというべきである。

八産業公害総合事前調査

1 通商産業省が昭和四一年度から昭和四八年度にかけて行った産業公害総合事前調査は、理由の部第二の二の6に記載したとおりである。

この調査は、資料の収集、調査員会議、拡散気象条件の現地調査、エアトレーナー実験、逆転層測定の現地調査、風洞実験による汚染濃度の予測、拡散理論式による汚染濃度の予測、重合汚染濃度の推定、汚染予測図の作成という経過をたどって行われた。

2 しかし、乙B一九号及び上野博司の証言によれば、右の事前調査には次のような問題点があるということができる。

(一) 昭和四八年度の調査においては、地域を代表する測定局として二〇局が選択されたが、千葉市からは臨海ドライブイン、明徳学園、千葉市役所、松ケ丘中学校、大宮小学校の五局が選ばれ、そのころ環境基準に不適合となっていた末広中学校と蘇我中学校の二局は選ばれなかった。

(二) 風洞実験は、二五〇〇分の一、四〇〇〇分の一という縮尺模型上に風速毎秒六メートルの風を吹かせて行われたが、それではダウンウォッシュ、ダウンドラフト現象を現出させることが困難であり、現実の拡散希釈現象を解明するのにも限界があった。

(三) 風洞実験又は拡散理論式によって得られた地上濃度は、いずれも一定の風向風速によるものであるから、重合汚染濃度を推定するのには、一定の係数を用いて補正しなければならなかったが、これによっても現実の数値との間に誤差を生ずることを避けることができなかった。

3 したがって、事前調査は、京葉臨海工業地帯の工場群からの排煙が重合するという前提の下に、風洞実験及び拡散理論式によって得た数値に基づいて重合汚染濃度の推定を行ったものであり、本件地域における地理的条件、気象条件及び大気汚染状況等については、これを考慮していなかったのであって、その実態について分析をしたものではなかったのであるから、事前調査による推定の結果に基づいて千葉製鉄所からの排煙による寄与率を推定するということには合理性がないものというべきである。

九主要汚染源性

千葉製鉄所は、京葉臨海工業地帯の一部に立地し、同工業地帯に所在する工場群の一つである。同工業地帯に所在した工場群から排出された大気汚染物質は、風の流れに乗って本件地域の上空に達し、その大気を汚染し続けてきた。

しかし、千葉製鉄所以外の各工場から排出されて、本件地域の大気を汚染してきた物質については、その数量及び流入の状況が明らかでないものの、これまで見てきた証拠に照らせば、その程度は極めて小さいものであったと推認するのが相当である。

そして、本件地域において測定されてきた大気中のいおう酸化物、窒素酸化物及び浮遊粒子状物質は、その地理的条件、気象的条件、排出施設、排出量及び測定結果等から見て、いずれも主として千葉製鉄所から排出されてきた物質であったと認めるのが相当であり、平均流線を用いた大気汚染の解析及び産業公害総合事前調査は、いずれも右の認定を左右するものでないのであって、他に右の認定を左右するに足りる証拠はない。

したがって、被告は、千葉製鉄所の操業によって、目録九及び一〇の各一覧表の各「侵害行為」欄記載の各始期から終期まで、本件地域に居住していた患者原告ら及び死亡患者らに対し、理由の部第三章の第三に記載した大気汚染物質を到達させて、その生命身体に被害を与え、もってその侵害行為を行ったものというべきである。もっとも、被告が行った侵害行為と、患者原告ら及び死亡患者らが被った健康被害との間の相当因果関係については、第一分冊(以下「本文」という。)第五章に記載したとおりである。

第四章健康被害

第一総論

患者原告らは本件疾病に罹患したというのであり、死亡患者らは本件疾病に罹患して死亡したというのであるから、各人が本件疾病に罹患し、これによって死亡した事実が証明されなければならない。

ところが、双方が提出し援用した証拠方法は、理由の部第六章の第一に記載したとおりである。

患者原告ら及び死亡患者らの生年月日、性別、公害病の認定状況は、理由の部第六章の第三に記載したとおりであり、その事実は当事者間に争いがないのであるが、そのことから認定できる事実は、その生年月日に出生した男性又は女性の患者原告ら及び死亡患者らが、その各年月日に公健法又は市条例・市要綱によって本件疾病に罹患したと認定された者であるという事実にとどまるのであり、それは重要な間接事実ではあるものの、公害病の認定患者であるからといって、直ちにその者らがそのとおり本件疾病に罹患したとの事実を認めるのは相当でない。

原告らの提出に係る検診書は、そのほとんどのものが第一回目の公害病認定申請の際に作成され、提出されたものであって、小田島光男の証言及び各通の記載内容によれば、各検診書の附記(経過・現症・大気汚染との関係等)欄に記載された事項は、これを作成した各医師が、そのすべてを各自の診療録に基づいて記載したというのではなく、特に各疾病の発症の時期・症状・経過については、各患者の訴えを聞き、これに依拠して記載したものと認めることができる。弁論の全趣旨に照らせば、原告らは、右の検診書のほかに、より詳細な事項を記載した診断書、その後の経過を記載した診断書、死亡診断書等を敢えて提出しようとしなかったものというべきであるから、これによる立証不十分の責任を甘受すべきものである。

第二健康被害

理由の部第六章の第二障害の程度、第三生年月日、性別、認定状況、及び第四個別被害状況に記載したとおりである。

右の認定に係る個別的被害状況に基づく本件疾病への罹患等についての判断は、本文第五章の第五に記載したとおりである。

第五章因果関係

第一総論

本文第三章に記載した被告の侵害行為と本文第四章に記載した患者原告ら及び死亡患者らの健康被害との間における因果関係について考察する。

民事訴訟における因果関係の立証は、「経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りる」(最高裁判所昭和五〇年一〇月二四日第二小法廷判決)ものというべきである。

ところで、本件疾病の臨床的特徴は、理由の部第七章の第一に記載したとおりであり、本件疾病は「非特異性疾患」であると言われている。この「非特異性」とは、「ある炎症又は疾患について、その原因がはっきり分からない場合、又は原因が数多くあって、これを特定することができない場合」であることを意味する。したがって、本件疾病の発症及び症状の増悪に原因を与える因子としては、大気汚染物質のほかに、各人の年齢、性別、居住歴、職業歴、喫煙歴、遺伝、アレルギー体質、既往症等をあげることができるのであるから、そのうちの大気汚染物質と本件疾病の発症等との間における因果関係を立証するについては、訴訟技術的に難しい問題がある。

しかし、因果関係の立証に関する原則を変更するのは相当でないものというべきである。そして、双方が口頭弁論において主張し立証してきた経緯に照らせば、第一に、本件疾病の臨床的特徴を見て、本件疾病と大気汚染との関係を考察し、第二に、千葉県及び千葉市等において行われた児童・生徒及び成人に関する疫学調査の結果を考察し、第三に、環境基準及び補償制度等の環境行政を見るとともに、被告が実施した公害防止対策を考察した上、第四に、患者原告ら及び死亡患者らが被った健康被害と大気汚染との間に因果関係の有無を各人ごとに考察するのが相当である。

なお、原告らは、「被告が、その排出に係る汚染物質による大気汚染と公害病認定患者の本件疾病の発症等との間に因果関係があることを認めた。」と主張するので、考察するに、乙C五六号によれば、被告は、昭和五〇年三月に作成した「第六溶鉱炉計画に伴う環境影響評価」において、「特に千葉市の場合、京葉臨海工業地帯に立地する各企業による重合汚染も無視できないものがあると想定されるが、患者の発生地域に最も近接している当所(千葉製鉄所)が、その発生要因の一部を占めることは否定できないことから、当初としては、地域環境改善に強く責任を感じ、患者の救済に全力を注ぐとともに、積極的な公害対策を講じてきており、今後とも一層の努力をする所存である」と記載した事実を認めることができ、また、被告が公害防止対策を講じ、かつ、千葉市の施策に協力して過去分補償の財源を負担した事実は、理由の部第九章の第二及び第三並びに本文第八章の第一の六に記載したとおりである。しかし、右の事実から、被告が原告ら主張の因果関係を認めたものと認めることは相当でなく、また、右の事実によって、被告が患者原告ら及び死亡患者らの発症等について因果関係を認めたものと見ることも相当でないのであって、他に被告が因果関係を認めたとの事実を認めるに足りる証拠はない。

また、患者原告ら及び死亡患者らの健康被害と大気汚染との間に因果関係を肯定することができるのであれば、その発症及び増悪について他の因子が関与していたとしても、それは大気汚染との間の因果関係を否定することにはならないのであるから、大気汚染との間の因果関係を否定するためには、その発症及び増悪が専ら他の因子に起因したものであって、大気汚染の影響を受けたことによるものではなかったことを証明しなければならないものというべきである。

第二本件疾病と大気汚染

一本件疾病の臨症的特徴は、理由の部第七章の第一に記載したとおりである。

二また、大気汚染と健康被害との関係を判断するに当たっては、中公審環境保健部会の下に設けられた専門委員会の作成に係る「大気汚染と健康被害との関係の評価等に関する専門委員会報告」(甲C一五四号)に従うこととするのが相当である。なぜならば、専門委員会の報告は、大気汚染と健康被害との関係に関する知見の現状を把握した上、これを総合的に評価したものであって、最新の情報を提供するものということができるからである。

これによれば、本件疾病と大気汚染との関係は、理由の部第七章の第二に記載したとおりとなる。

三したがって、非特異的疾患としての慢性閉塞性肺疾患の自然死における大気汚染の関与の可能性は、その基本病態と目すことのできる持続性の気道粘液の過分泌、気道の反応性の亢進又は過敏性、気道感染、気道閉塞の進展、並びに気腫性変化において、いずれも肯定することができるのであり、現在でも我が国の大気汚染は、二酸化いおう、二酸化窒素及び大気中粒子状物質で代表されるのであって、現在の大気汚染が総体として慢性閉塞性肺疾患の自然死に何らかの影響を及ぼしている可能性は、これを否定することができないこととなる。

もっとも、燃料消費事情、汚染対策、発生源の変化、特に交通機関の構造変化によって、最近の大気汚染は、二酸化窒素と汚染中粒子状物質が特に注目される汚染物質であると考えられるようになり、現在の大気汚染の慢性閉塞性肺疾患に対する影響については、昭和三〇年代ないし昭和四〇年代のように、大気汚染濃度の高い地域の有症率の過剰をもって主として大気汚染による影響であると考え得るような状況ではなくなったともいうことができる。

第三疫学調査

一理由の部第八章の第一疫学の意義、第二児童・生徒に関する調査、第三BMRC調査、第四成人に関するBMRC調査、及び第五その他の調査に記載したとおりである。

二環境への影響と呼吸器疾患の多発

<証拠>によれば、次の事実を認めることができ、その認定を左右するに足りる証拠はない。

1  本件地域は、千葉製鉄所が操業を開始する以前においては、自然環境に特別の変化が見られなかったが、昭和三〇年代に入ったころから、同製鉄所の工場から排出されたいわゆる赤い煙や同製鉄所の貯炭場等から発生した黒いほこりが、本件地域の上空に飛来して、悪臭を発したり、住宅に入り込んだり、洗濯物を汚したり、家屋のトタン屋根を赤く錆びさせたり、壁を赤く染めたりするなどの被害を発生させるようになった。

2 そのため 本件地域の住民は、被告、千葉県及び千葉市に対しその被害について陳情を繰り返し、昭和三四年三月一一日には、千葉市今井町町会長が千葉製鉄所長に対し、「一般家庭で洗濯物に被害が出ること。障子を閉じても、ばい煙が室内に侵入して、掃除を余儀なくされること。トタン屋根にばい煙が付着して、腐食の原因となること。」などを訴え、ばい煙に関する対策を講ずるよう歎願書を提出した。その後も住民らの被害は発生し続け、昭和四一年及び四二年には、本件地域の寒川小学校や、蘇我小学校などの水泳プールに粉炭や鉄粉が降り注いで、水泳をすることができなくなり、昭和四二年一〇月には蘇我小学校の校庭に大量のグラファイトが降下したので、校庭に出ていた児童を教室に避難させたりした。

3  昭和三〇年代から本件地域周辺の植物に対する影響が現れて、千葉寺境内のけやき、むく、いちょうなどが八月上旬に異常落葉したり、松、杉などが枯れてしまうことが目につくようになった。また、本件地域に所在する大巌寺に生息していた鵜の数が次第に減少するようになった。昭和四〇年代になると、これらの被害は広域化し、かつ、深刻さを増すようになった。

4 本件地域の白旗に所在する今井町診療所の医師小田島光男は、昭和三一年から同診療所に勤務するようになったが、前任地であった山形県小国町に比べて、本件地域では、風邪を引き易く、治りにくい小児が多く、昭和四〇年代からは、風邪を引く患者が増加したとの体験を得た。

5 千葉県は、昭和三九年度に千葉大学医学部衛生学教室に対して、大気汚染が人体に与える影響についての総合的研究を委託し、基礎的調査を行ったが、この結果によると、本件地域の蘇我町、今井町においては、特に、(一)洗濯物の汚れ、(二)髪・耳・鼻孔の汚れなどの人体表層の汚れ、(三)太陽光線の減弱感、遠景見通しの減弱感など環境の変化、(四)樹木の立枯れ、木の葉の汚れ、(五)ガラス窓の汚れ等の点について、いずれも大気の汚染による影響が著明であった。

昭和四一年度に行われた大気汚染に関する被害調査においても、蘇我町、今井町においては、衣服の汚染、肌・髪・耳・鼻など人体に対する汚染、太陽光線の減弱感といった大気の汚染について、昭和三九年度の調査よりも訴えが増加し、大気汚染による影響が著しく増えた。

6 昭和三九年度の国民健康保険請求書に基づく疾病の発生状況の調査によれば、本件地域の寒川町においては、本件地域外の院内町と比べて、「年間を通して眼疾患が多発し、感冒が冬季のほか一〇月にもピークを示し、扁桃腺炎が七月と九月に冬季以上のピークを示し、気管支炎が一〇月にピークを示す。」というように、疾病の発生状況が異なっていた。

この調査において、本件地域の今井町、本件地域外の小仲台町を加えて考察した場合には、「昭和三九年四月から一二月までの期間では、一二月に寒川町、今井町で感冒の発生数が最高を示し、院内町、小仲台町では、九月ないし一〇月にピークを示したが、その発生数は寒川町、今井町に比べてかなり少ない。また、気管支炎の発生数についても、院内町、小仲台町のピークである八月でも、その発生数は寒川町、今井町の半数である。」ということになった。

7 また、千葉大学医学部衛生学教室教授田波潤一郎は、昭和三九年度の国民健康保険請求書に基づいて今井町(一六三人)、院内町(一一五九人)、小仲台町(九九七人)の加入者について疾病率を統計し、その結果について、「感冒では、今井町の月平均疾病率が9.53パーセントのところ、院内町では2.58パーセント、小仲台町では3.22パーセントであり、気管支炎では、今井町の月平均疾病率が2.58パーセントのところ、院内町では0.86パーセント、小仲台町では1.83パーセントであり、扁桃腺炎では、今井町の月平均疾病率が3.42パーセントのところ、院内町では1.46パーセント、小仲台町では1.02パーセントであり、ぜん息では、今井町の月平均疾病率が0.68パーセントのところ、院内町では0.26パーセント、小仲台町では0.22パーセントであった。大気汚染度の高い今井町では呼吸器疾患が多発する傾向が見られた。」と報告した。

三四七年市学童調査

1 千葉大公衆衛生学教室は、四七年市学童調査の結果を解析するに当たって、当初集計した数値を間違えたり、地理的分布及び学校別順位の分析を的確に行わなかったりした。しかし、同教室の吉田亮教授は、その誤りを指摘されて、集計をし直した上、新たな数値に基づいて、小学校五四校の児童の気管支ぜん息(気管支ぜん息の疑いのある者を含む。)有症率と大気汚染との間の相関関係を検定した。

改めて行われた検定の結果を対比して見ると、小学校女子の気管支ぜん息有症率の地域間有意差について、当初の報告では「有意差がある。」とされたのが、検定では「有意差がない。」とされた部分があり、この点には誤りがあったということができるのであるが、それ以外に、有意差の結論部分については、当初の報告と検定との間に差異がなかったことが分かる。また、調査結果の集計に当たって誤りがあったとしても、検定により必要な訂正が行われたのであるから、そのことから直ちに調査結果の解析全体について信頼性がないというのは相当でない。

2 <証拠>によれば、千葉市の全小学校男女の学校別気管支ぜん息頻度の地理的分布状況を見ると、本件地域の小学校男子の気管支ぜん息有症率は、他の地域の小学校男子の有症率と比較して、必ずしも高いものではなかった事実を認めることができる。

ところで、吉田亮の証言によれば、千葉大公衆衛生学教室は、四七年市学童調査結果を解析するに当たって、PbO2法によるいおう酸化物濃度によって千葉市の全小学校を四地域に区分した上、地域別の児童・生徒の気管支ぜん息有症率と濃度との関連を見るという手法を採用し、他に全小学校を地理的若しくは環境的にふかんして、気管支ぜん息有症率の発生特徴を見るという手法を採用したのではなかった事実を認めることができる。しかし、千葉市の全小学校の地理的分布状況を見るというのは、濃度によって区分された地域との関連を見ることになるのであるから、本件地域の小学校男子の気管支ぜん息有症率が他の地域の小学校男子の有症率と比較して必ずしも高いものではなかったという事実は、これを軽視することができなかったものというべきであり、この点を看過して行った同教室の解析は十分な検討を経たことによるものでなかったものというほかない。

3 <証拠>によれば、四七年市学童調査結果のうち、児童・生徒ぜん息有症率といおう酸化物濃度との間の相関関係の有無について、被告が採用した手法により解析すると、その相関関係を認めることができるのは、PbO2法による昭和四七年の小学校男子のみであり、千葉大公衆衛生学教室が相関関係を解析するについて考察の対象外とした弥生小学校の測定値、及び同教室が考察の対象とした誉田小学校の測定値が相関関係の有無の判定に及ぼした事実を認めることができる。

ところで、吉田亮の証言によれば、同教室が弥生小学校を除外したのは、緑町小学校が測定点に近接していて、その測定値で十分であったとの理由からであり、また、誉田小学校を加えたのは、弥生小学校を除外したことに伴い、対象の事例数を増やすために、別調査の四五ないし四七年県学童調査によって得た測定値を取り込んだ事実を認めることができる。しかし、そのように解析をすべき対象を任意に選択したのでは、解析の客観性を失わせるものというほかない。

4 四七年市学童調査結果の解析に当たっての新宿小学校の地域区分について、乙D一七号によれば、同小学校は、昭和四七年度のPbO2法によるいおう酸化物の年平均値の等濃度線による分類では、B地域に位置するものとして区分されていた事実を認めることができ、他方、乙D二六号の三及び同二七号の二によれば、同小学校は、昭和四七年のPbO2法によるいおう酸化物濃度の年平均値の等濃度線による分類では、B地域に位置しない事実を認めることができる。しかし、この差は、昭和四七年の年平均値と昭和四七年度の年平均値という差異に基づくものと見るのが相当である。

5 以上のように、四七年市学童調査については、その結果を解析するに当たって、一部に正確性を減殺するようなことが行われたのであるが、その調査対象が豊富なものであった上、吉田亮の証言によれば、その解析に当たっては、可能な限り客観性を保持するように作業が進められたものと認めることができ、解析の結果についても、一概にこれを排斥すべき事由は見当たらないのであるから、総じて見れば、その解析の結果については、これを信用するのが相当である。

四四五ないし四七年県学童調査

1 <証拠>によれば、四五ないし四七年県学童調査において対照校とされた小学校は、ほとんどが農村地域に位置して、ぜん息有症率の低い地域の学校であり、また、対照校の学年別ぜん息有症率は、低いものであって、「低学年に高く、高学年になると低くなる。」という児童のぜん息有症率一般に見られる傾向がなかった事実を認めることができる。

被告は、「右の事実に照らしても、汚染校と対照校との間に生じたぜん息有症率の差が都市的要素によるのか、大気汚染によるのか、その他の要素によるのか、判別ができない。」と主張する。

しかし、一般にぜん息有症率に影響を及ぼす要素として都市的要素や農村的要素などが考えられるとしても、この調査においてこれによる影響がどのような程度のものであったかについては、立証がないのであり、吉田亮の証言によれば、対照校を選定するに当たっては、関係者が、大気汚染以外の諸条件によって生ずる差をなるべく少なくするように配慮して、これを定めた事実を認めることができるのであるから、対照校の選定が不当であったという指摘は当を得ないものというべきである。

2 大宮小学校は中間校として分類されたのであるが、甲C一三号及び吉田の証言によれば、同小学校は、当初対照校として分類されていたところ、その大気汚染濃度を調べているうちに、濃度が高いことが分かったため、これを対照校に組み入れて置くのは不適当であるとされ、同小学校だけが特別に中間校として取り扱われることになった事実を認めることができる。

千葉大公衆衛生学教室が中間校を基準として対照校及び汚染校とのぜん息有症率を比較しなかった理由については、吉田の証言によっても明らかであるとは言えないが、中間校として分類された経緯に照らせば、同教室は、中間校という枠組みを設定した段階において、大宮小学校の児童に関する調査結果については、これを解析の対象から除外すると決めていたものと推認することができ、そのために中間校との比較をしなかったものと思われる。

3 また、乙D一一九号によれば、四五ないし四七年県学童調査における有意差検定結果について、有意差ありとされた二九項目のうち一三項目が、荘司栄徳らによる再検定(カイ二乗検定)の結果と相違したというのであり、<証拠>によれば、ぜん息児の経過に関する有意差検定のうち、症状が増悪した者については、汚染校においても、男子女子とも有意差なしとするのが正確な検定であり、症状が軽快した者について、対照校女子の有意差ありとの検定誤差危険率は0.05以下であった事実を認めることができる。

五四七年BMRC調査

1 この調査において被調査者の面接に当たった者は、調査会場へ来訪した者については、千葉市市民生活部健康管理課所属の保健婦であり、自宅に居た者については、千葉大学医学部の学生二四人もこれに加わった。

吉田亮の証言によれば、千葉大公衆衛生学教室教授吉田亮は、面接を担当させる学生については、医学部の学生から希望者を募って、二四人を選び、その者らに対し、慢性気管支炎についての医学的な定義、BMRC調査の意義と調査方法、その注意事項等について一応の教育をした上、BMRCの質問票使用指針に掲げられたレコードまでは使用しなかったものの、実際に幾つかの答えを想定したり、いろんな人を想定したりして訓練をしたほか、各人の親を被調査者とした調査を実施させたりして、事前に準備をしたのであり、保健婦についても、同じような教育と訓練をした事実を認めることができる。したがって、面接者については、質問票使用指針のとおりではなかったものの、事前に相応の指導と訓練が施されたものということができる。

2 千葉市は、この調査に当たって、事前に千葉医師会の協力により各診療所・病院に調査の趣旨と協力の要請を記載したビラを貼付し、「ちば市政だより」で市民に協力を求めたほか、対象者全員に対し、市長・医師会長・調査会長の連名による依頼状を送付して、調査への協力を要請した。

したがって、これによれば、事前に調査の目的が告知されたことによって、調査結果に偏りが生ずるおそれがあったものと推測することができる。しかし、それは、偏りが生ずるおそれがあったであろうとの推測に過ぎないのであって、一般市民の理解を得て、その協力を求めるためには、そのような措置を執ることも必要やむを得ないことであったというべきである。

また、乙D一七一号によれば、昭和四六年九月一一日付け千葉日報は、「ゼンソク患者にメス」との見出しの下に、「これはゼンソク患者の実態を掌握するとともに、今後、公害病認定のさいの基礎資料にすることをねらいとしている。」と報道した事実を認めることができる。しかし、これは、千葉日報が当時の社会問題を取り上げて、客観的事実を報道したにとどまるものであり、これによって読者に何らかの偏りがもたらされたとしても、調査者としては、これを阻止することができなかったものというべきである。

3 肺機能検査については、会場来訪者について実施されたが、汚染地域における実施率が低かったので、これに関する分析が省略された。

確かに肺機能検査は、被調査者の自覚症状の客観性を確かめるために併用して行われるべきものであるが、甲C二号、吉田及び塚谷恒雄の各証言によれば、肺機能検査及びこれによる分析が実施されなかったとしても、それは、BMRC調査結果の信頼性を補強する資料を備えなかったというにとどまるものであって、その信頼性を失わせることにはならないものと認めるのが相当である。

4 千葉市ばい煙等影響調査会の作成に係る昭和四七年三月の原報告書においては、調査結果の集計及び解析に多くの誤りがあったので、千葉大公衆衛生学教室は、昭和五二年三月原報告書を改訂して、訂正報告書を作成し、これをもって四七年BMRC調査の報告書とした。

<証拠>によれば、報告書が改訂された経緯について、「この調査は、千葉県で初めてBMRCの面接質問票を使用して行われた。当時この方式で行われた調査は少なかった。呼吸器症状群の組み合わせの仕方など細部についての理解が確立されていなかった。原報告書の作成に当たっては、調査結果の集計に初歩的な誤りを犯したので、有症率の比較及び検定にも誤りを生じた。その後呼吸器症状群の組み合わせ等について統一的な理解が得られたほか、喫煙量の訂正有症率を計算する方法が定められた。吉田は、全面的にやり直すこととし、文部省統計教理研究所所属の博士柳本武美に対し、調査原票に基づく集計を依頼して、その結果を得た。吉田は、この数値に基づいて、新たに解析を行い、訂正報告書を作成した。」との事実を認めることができる。

乙D一一九号によれば、原報告書と訂正報告書を対比すると、有意差検定結果の八〇〇項目余のうち三三六項目について訂正が行われていたというのであるが、その訂正報告書に基づいて調査結果を考察するのであれば、原報告書における誤りを殊更に取り上げる必要はないものというべきである。

5  中公審は、「大気の汚染が極めて軽度の地域における有症率を『自然有症率』とみなし、これを標準として大気汚染の影響による疾患の発生をあらわせばよいであろう。」と答申した。

乙D二〇〇号によれば、慶応大学名誉教授外山敏夫は、「自然有症率ということばは、疫学用語でも、医学用語でもなく、人類生態学を無視したことばです。」と講演した事実を認めることができ、九州大学医学部名誉教授猿田南海雄は、「三パーセントを『自然』有症率としたりすることは、科学的にいう限り誤りと言う他ない。」と記述し(乙D二一三号の二)、筑波大学社会医学系教授山口誠哉は、「いわゆる自然有症率ということで一定の線を引くという考え方は、最早現在の日本においても、多くの疫学者はおかしいと理解していることだと存じております。」と証言している。

ところで、自然有症率というのは、「そこまでは大気汚染の影響を受けない。大気汚染の影響を受けるのはここから上であって、その者が補償を受けるという仕組み」(乙D二〇〇号)を実施する意図の下に、その目安として採用された概念であると解することができるのであるから、そのように取り扱えば良いのであって、この概念を否定しなければならないというほどのものでもない。

6  5+10症状は、慢性気管支炎の基本的な指標である持続性せき・たん症状を示すものであり、これによる有症率は、それが直ちに当該疾病の発生と対応するものではないとしても、その割合が高ければ、慢性閉塞性肺疾患の発生を推定させるものということができる。

被告は、「5+10有症率は疾病の指標ではない。」と主張するのであるが、専門委員会による「大気汚染と健康被害との関係の評価等に関する専門委員会報告」(甲C一五四号)においても、「慢性気管支炎の基本症状に対応する疫学的指標は持続性せき・たんであり、これを指標とした疫学調査は我が国においても以前から行われており、従来からBMRC方式に準拠した問診票、更に近年はATS方式に準拠した質問票を用いて調査が行われている。」と記述しているのであって、5+10症状を慢性気管支炎の基本的な指標であると見ても、誤りではないものというべきである。

なお、専門委員会の同報告(甲C一五四号)は、「気管支ぜん息において発作性呼吸困難、ぜん鳴等の臨床症状はかなり特徴的であり、これに対応する疫学的指標はATS方式に準拠した質問票のぜん息様症状・現在で代表される。」と記述し、更に、環境庁が昭和六一年に発表した「質問票を用いた呼吸器疾患に関する調査」、「大気汚染健康影響調査報告書」及び「国民健康保険診療報酬明細書を用いた呼吸器疾患受診率調査及び新規受診率調査」において、いずれもATS方式に準拠した質問票を用いて調査を行い、「ぜん息様症状・現在」及び「持続性ゼロゼロ・たん」を指標とした有症率の有意差検定を行ったことを報告している。しかし、環境庁が気管支ぜん息について「ぜん息様症状・現在」の指標を採用したからといって、直ちに四七年BMRC調査における5+10症状を指標とした解析の信頼性を減殺するということにはならないものと見るのが相当である。

7  喫煙による影響について考察するに、<証拠>によれば、「タバコを喫えば、タバコの煙が肺に吸入される。タバコの煙は、ガス状と微粒子の多数の化合物の雑多な混合物である。その中には一酸化炭素、二酸化炭素、メタン、アセチレン、二酸化窒素等が含まれている。タバコの煙中の窒素酸化物濃度は、銘柄や喫煙条件等によって異なるが、数百ppmから千数百ppmにまで達する。喫煙は呼吸器疾患の発症及び増悪に影響を及ぼす。」との事実を認めることができ、また、右の各証拠によれば、「慢性気管支炎は、その大多数が喫煙が原因である。」と見ている者が多いことが分かる。

しかし、喫煙による影響があったからといって、大気汚染による影響が排除されたわけではないのであるから、専ら喫煙によるものであったか否かが、個別的に考察されるべきこととなる。

同じようなことは、間接喫煙及び室内汚染についてもいうことができる。間接喫煙とは、喫煙者がタバコを喫った時に出る煙(副流煙)を周囲の者が吸入することであり、室内汚染の原因としては、タバコの煙、台所のガスレンジ・湯沸かし器その他の厨房設備から排出される物質、冬季の暖房設備から排出される物質等を挙げることができる。

8 そして、吉田の証言によれば、四七年BMRC調査における有症率等の検定結果については、これを信用して良いものと認めるのが相当である。

六四九年BMRC調査

1 この調査は、別表一一九記載のA、B、C、Dの各地区からそれぞれ四〇〇人前後の者を抽出して、実施された。

被告は、「面接者が基本的な調査方法を遵守していなかった。」と主張し、乙D五九号によれば、面接者が、被調査者の面接調査において、質問票使用指針に定められた事項を守らないで回答を得た事例が多数あったものと推認することができるというのである。しかし、吉田亮の証言に照らせば、乙D五九号に記載されたような事例があったとしても、被告の主張するような事実を推認することはできないのであって、吉田の証言によれば、吉田亮は、面接を担当させた保健婦らに対し、事前に相応の教育と訓練を行った事実を認めることができる。

2 千葉市は、事前に「ちば市政だより」をもって、この調査が公健法を実施するための基礎資料を作成するためのものであることを広報し、対象者全員に対し依頼状を送付した。

これによれば、調査結果に偏りが生ずるおそれがあったものと推測することができないわけでもないが、それは推測の域を出ないものであり、また、そのような措置が執られたとしても、それは一般市民の理解と協力を得るためにやむを得ないことであったと見るのが相当である。

3 被告は、「この調査結果には数え切れないほど多くの集計上の誤りがあった。」と主張し、乙D五九号には、その旨の記載がある。

しかし、吉田の証言によれば、吉田亮は、それなりの見解に基づいて調査結果を集計し、解析をしたものと認めることができるのであるから、乙D五九号に記載されたような分析ができるものとしても、それをもって調査結果に多くの集計上の誤りがあったと認めるのは相当でない。

4 甲C一五号によれば、肺機能検査において、閉塞性障害者(一秒率が七〇パーセント以下の者)の割合及び一秒率平均値は、いずれも指定地域と非指定地域との間に差がなかったものと認めることができる。

吉田の証言によれば、吉田は、右の調査結果について評価を加えなかったが、それは、検査が正確に行われたものでなく、機器の感度も良いものでなかったので、地域間の比較をすることの意味がないと判断したからであったというのである。

また、甲C一五号には、喀たん検査の結果について記載されていないことが分かる。

5 しかし、吉田の証言に照らせば、四九年BMRC調査における有症率等の検定結果についても、これを信用することができるものと見るのが相当である。

七四六年千葉大調査

1 <証拠>によれば、千葉大式BMRC質問票は、千葉大医学部の研究班(五部門から選出)が昭和四二年に、昭和三五年版BMRC質問票に準拠し、これを千葉県住民の実情に適合するように修正して作成したものであり、千葉大式評価法は、同研究班が千葉大式BMRC質問票に合わせて作成した自覚症状等の評点表に基づいて、質問票による回答を点数で評価し、分析するというものであったことを認めることができる。

この千葉大式評価法は、診断の方法が綿密であり、定量的に評価ができる点で優れているが、評点方法の基準と妥当性に問題があるということができ、桜井の証言によれば、桜井信夫ら以外の者はこれを採用したことがなかった事実を認めることができる。

2 この調査は、昭和四六年三月に行われ、その結果が昭和五二年八月から昭和五四年四月までの間に三回にわたって発表された。

桜井の証言によれば、その調査は、昭和四六年三月に千葉市から委嘱を受けた行ったものであり、同市には間もなくその報告書を提出していたが、昭和五二年に千葉医学会の編集委員長から執筆の依頼を受けたので、これに応ずることとし、投稿して発表したというのである。

3 桜井の証言によれば、被調査者は、千葉市が広報等により、「成人病の予防のために検診をする。血圧、レントゲン、呼吸器などの検査をする。」などと呼び掛けたのに応じて、指定された日に公民館に集まってきた者であった事実を認めることができ、そのために被調査者は、男女の比率、年齢構成、地域別の比率において、いずれも不統一なものとなった。

八四七年郡司調査

この調査は昭和四七年五月から一年半にわたって行われたものであり、その期間が長いものであった。被調査者は、千葉製鉄所の従業員であって、一般住民を対象としたものではなかった。BMRC質問票のうち「せき、たん、ぜん鳴」に関する質問事項のみを採用した「簡易質問票」によって、調査が行われた。

九五〇年基礎調査

1 千葉大公衆衛生学教室及び同教室教授吉田亮らは、この調査を行うに当たって、解析の対象とする大気汚染物質の濃度を摘出する基準を設定した。

ところが、<証拠>によれば、解析の対象とされた二酸化いおう、一酸化窒素、二酸化窒素及び窒素酸化物の各濃度について、被告千葉製鉄所環境安全部長医学博士荘司栄徳から、その六〇項目の数値のうち三三項目の数値が吉田らの設定した基準に合致していないと指摘され、吉田が「それは意味のない指摘である。」と反論したので、荘司が「吉田の反論は誤っている。」と更に反論を重ね、その論争はいずれも月刊誌「産業と環境」に掲載されて、広く知られることとなった事実を認めることができる。

そして、<証拠>によれば、前田和甫、久徳重盛、高桑栄松、堀口俊一、設楽正雄、喜田村正次、外山敏夫及び猿田南海雄は、いずれも荘司の見解が正当であるとして、これを支持した事実を認めることができる。

しかし、<証拠>によれば、吉田らが設定した基準は、その原則を示したものであって、吉田らは、その基準に合致する数値を見出すことができないときには、基準に近似して結果に影響を及ぼさないような数値を見付け出し、これを解析の対象として、できる限り正確な解析をしようとしたのであり、現実に採用された数値には、さ細な点で誤りがあったものの、ほとんどのものは正当なものであったと認めるのが相当である。

2 この調査においては、PbO2法による測定値に0.03を乗じて得た換算値が使用された。

しかし、溶液導電率法では二酸化いおうの濃度を測定することができるのに、PbO2法ではいおう酸化物の量を測定することができるだけで、濃度を測定することはできないのであるから、PbO2法による測定値(mgPbO2)を溶液導電率法による測定値(ppm)に換算し、その上その換算値を用いて重回帰式による解析をすることについては問題がある。

<証拠>によれば、二種類の測定値は異質なものであるから、いおう酸化物の量の測定値にある係数を乗じて、それを濃度の測定値に換算することはできないことであるというのである。

とはいっても、溶液導電率法による測定方法が採用される以前においては、PbO2法による測定方法が採用されて、いおう酸化物濃度を判定する手段とされていたのであり、柳沢の証言に照らしても、同じ条件の下に測定された二種類の測定方法による測定値を比較すれば、その測定値の間における換算係数を算出することができるものというべきである。そして、<証拠>によれば、中公審大気部会いおう酸化物に係る環境基準専門委員会は、昭和四八年三月当時、「二酸化鉛法による測定値から溶液導電率法による測定値への対応をみることは一般的には困難であるが、一応わが国における各地の測定値の平均的対応からみると」として、その換算をすることを容認していたのであり、吉田らが換算係数として0.03を採用し、これをもって溶液導電率法による測定値に相当する数値を算定したことは相当であったものと認めることができる。

3 この調査における疫学及び統計の手法について、前記1の荘司(乙D一一九号、同一二〇号)、前田(同一二二号及び証言)、久徳(同一二五号の二)、高桑(同一二六号の二、同一三四号)、堀口(同一二七号、同一三五号、同一三六号の二)、設楽(同一二八号の二)、喜田村・外山(同一三四号)、猿田(同一四九号、同二一三号の二)並びに柳沢(証言)及び藤田董(証言)は、いずれもその信頼性が乏しいものであったというのであるが、これらの者は、いずれも荘司と吉田との間の論争における荘司の見解が正当であったとの前提によるものであったから、その論争において吉田の見解が正当であったとすれば、その前提を欠くこととなる。

そして、<証拠>によれば、吉田らがこの調査において行った解析は、いずれも正当なものであって、一部にさ細な誤りがあったものの、それは結論に影響を及ぼすものではなかったのであり、しかも、その解析は、四七年BMRC調査及び四九年BMRC調査等を集大成したものであったと認めるのが相当である。

一〇したがって、児童・生徒については、四七年市学童調査、四五ないし四七年県学童調査及び四九年学童調査によって、汚染地域と対照地域との間に地域差があり、大気汚染濃度とぜん息頻度及びぜん息有症率との間に相関関係があることを認めることができ、また、成人については、四七年BMRC調査、四九年BMRC調査及び五〇年基礎調査によって、汚染地域と対照地域との間に地域差があり、大気汚染濃度と呼吸器症状有症率との間に相関関係があることを認めることができる。

そして、これまで見てきたところによれば、大気汚染濃度とぜん息頻度及び呼吸器症状有症率との間には、いずれも関連性があるものと認めるのが相当である。

三九年学童調査、四三年学童調査、四九年受診率調査、四六年千葉大調査、四七年郡司調査及び寺牛調査は、いずれも右のような認定を左右するに至らないものである。

第四環境行政

一環境基準

1 環境基準が制定された経緯は、理由の部第九章の第一に記載したとおりであり、環境基準の内容は、理由の部第四章の第二に記載したとおりである。

2 二酸化窒素、二酸化いおう及び浮遊粒子状物質の環境基準は、その三物質が人の健康と福祉にどのような影響を及ぼすかという問題に、多くの疫学的知見及び実験的知見に基づいて総合的に考察し、人口集団の健康を適切に保護するための指針として設定されたものである。

したがって、環境基準は、公害対策基本法九条の規定に基づき、同法の規定による行政上の施策を遂行するため、「人の健康を保護し、生活環境を保全するうえで維持されることが望ましい基準」として設定されたものであったとしても、環境基準は、大気汚染による健康被害を考察する上において、これを一つの判定基準とすることができるものというべきである。もっとも、大気汚染濃度が環境基準を超えたときには、直ちにそれが健康被害に影響を及ぼしたものと見るべきであるとするのは早計であって、環境基準は、大気汚染による健康被害の程度を計る目安として、これを活用するにとどめることとするのが相当である。

3  理由の部第四章の第三に記載した大気汚染測定結果によれば、本件地域においては、いおう酸化物濃度、窒素酸化物濃度及び粒子状物質(浮遊粒子状物質)濃度が、いずれも多数の頻度において環境基準を超えていたものと認めることができる。

二補償制度

1 市条例による救済制度、本件地域の第一種地域指定、障害の程度の規定、市要綱等による救済制度、公健法の規定による認定手続及び市条例等による認定手続は、理由の部第九章の第二の一ないし六に記載したとおりである。

2 ところで、救済法は、「因果関係の立証や故意過失の有無の判定等の点で困難な問題が多いという公害問題の特殊性にかんがみ、当面の応急措置として緊急に救済を要する健康被害に対し、民事責任とは切り離した行政上の措置として特別の救済措置を講ずることを目的として制定されたものである」(乙E9号)ということができる。また、公健法による救済制度は、「本制度の対象とする被害の発生が原因者の汚染原因物質の排出による環境汚染によるものであり、本来的にはその原因者と被害者との間の損害賠償として処理されるものにつき制度的解決を図ろうとするものである以上、基本的には民事責任をふまえた損害賠償保障制度として構成すべきである」(甲C一号)ということができるのであるが、制度上の因果関係については、特に第一種地域では、「指定地域、指定疾病及び暴露要件という三つの要件によって、いわば形式的、定型的に割り切っておるわけで、制度上はそのような因果関係の推定を基礎として公害病患者を認定する」(乙D八七号)ものであると認めるのが相当である。

3  したがって、患者原告ら及び死亡患者らが公健法又は市条例等により所定の認定手続を経て公害病患者であると認定されたものであったとしても、そのことだけから直ちに原因者の汚染物質排出行為と被害者の健康被害との間に民事上の法的因果関係があると認めるようなことはできないものというべきである。

もっとも、健康被害者が公健法又は市条例等によって公害病患者であると認定されたことは、それなりにこれを尊重すべきであるということはできる。

三公害防止対策

1 被告が千葉県及び千葉市との間に幾つかの公害防止協定等を締結して、公害防止のための施策を実行し、ばいじん対策、粉じん対策、二酸化いおう対策及び二酸化窒素対策を実行したことは、理由の部第九章の第三の一ないし五に記載したとおりである。

2 そして、千葉製鉄所から排出されたいおう酸化物、窒素酸化物及びばいじんの各排出量及びその推移は、別表一一記載のとおりである。

これによれば、いおう酸化物の排出量は、「昭和四六年が最高で、昭和五一年にほぼ半分に減少し、昭和五二年以降は著しく減少し」、窒素酸化物の排出量は、「昭和四八年が最高で、昭和五一年に減少し、昭和五二年以降も少しずつ減少し」、ばいじんの排出量は、「昭和五一年が最高で、昭和五二年に減少し、昭和五三年以降も減少し」ていたものということができる。

3  しかし、大気汚染物質の排出行為と健康被害との間の因果関係は、排出された汚染物質の絶対量によって左右されたものと見るのが相当であって、汚染物質の排出量が相対的に減少したものであったとしても、それが直ちに因果関係の切断につながるものであったとまで見るのは相当でない。すなわち、被告が実行した公害防止対策によって、汚染物質の排出量は著しく減少したのであるが、そのことは考慮すべき事項の一つにとどまるものというべきである。

第五個別的因果関係

一原告稲葉正

1 乙D二七二号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 昭和四〇年五月千葉大病院で起立性低血圧症と診断された。昭和五〇年に全身倦怠感を覚え、起床が苦痛となったのは低血圧の症状である。

(二) 全校マラソンの完走後に倒れたのは、呼吸器神経症の代表である過換気症候群によるものである。

(三) 慢性咽頭炎がある。

(四) 基調には自律神経失調症があり、心因的な要素が関与している。

(五) 喫煙の関与が大きく、チョークの影響も無視できない。

(六) 気管支ぜん息の症状もある。

(七) 以上のものに慢性気管支炎が合併している。

2 ところで、稲葉正の第二回供述によれば、同原告は、千葉高に在職中、毎年定期健康診断及び成人病検診を受けていたが、これによって呼吸器に異常があると指摘されたことはなかった事実を認めることができる。また、甲D一一八号の二、三の各検診書は、概括的な記述にとどまっていて、問診の結果をそのまま記述した部分もある。更に、稲葉の第二回供述によれば、同原告は、昭和二六年ころから昭和五三年ころまで約二七年間にわたって喫煙していた事実を認めることができる。

3 そうすると、症例検討による考察にもそれなりの根拠があるものと認めることができ、甲D二〇四号はその認定を左右するに足りない。しかし、症例検討も同原告が慢性気管支炎に罹患したことを否定していないし、同原告は、昭和三六、七年ころからせき、たん及び発熱を伴う風邪のような症状に見舞われ、昭和四五年ころからせきとたんの症状が悪化して、それが継続するようになったというのであるから、同原告は、遅くとも昭和四四年ころには慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

4 症例検討は、同原告の自律神経失調症及び心因的要素が発症に関与しているというのであるが、その程度を明らかにしていない。また、同原告の喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼしたものと推測することができるとしても、その喫煙が慢性気管支炎を発症させたとまで認定するに足りる証拠は存在しない。

5 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

二原告漆原トモ

1 乙D二七九号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 昭和四八年二月に肺気腫と診断されたというが、それに符合する症状は見られない。

(二) 狭心症であり、昭和四一年にその兆候があった。

(三) アレルギー性鼻炎がある。

(四) 夫が死亡した後に良くなっているので、夫が症状を増悪させていた。

(五) 狭心症とアレルギー性鼻炎の合併症か、あるいは気管支ぜん息と狭心症の合併である。

2 漆原トモの供述によれば、同原告は、昭和四〇年ころから鼻水が出るようになり、夫から「一生の不作だ。結婚するんじゃなかった。」などと言われて、夫婦喧嘩が絶えなかった事実を認めることができる。甲D一七九号の二によれば、同原告は、昭和四八年二月千葉大病院呼吸器科において肺気腫と診断されたというのであるが、漆原の供述によれば、同原告は、そのような病名の診断を受けた記憶がないというのである。また、漆原の供述によれば、昭和四九年五月千葉大病院でアレルゲンテストを受けたが、七、八箇所に注射しても、赤くなったものがなかった事実を認めることができる。そして、甲D一七九号の二によれば、同原告は、昭和四九年三月から狭心症を合併した事実を認めることができる。

3 以上のほか、甲D二〇四号によっても、同原告は、昭和四一年六月ころ気管支ぜん息に罹患し、昭和四九年三月から狭心症がこれに合併するに至ったと認めるのが相当である。

アレルゲンテストを受けたというだけでは、アレルギー性鼻炎に罹患していたと認定するのに十分でないし、症状が軽快したのは、本件地域から非指定地域に転居したことによるものとも推測することができる。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

もっとも、同原告は、昭和六〇年一二月ころから症状が重くなったところ、その原因が大気汚染にあったものと認めるのは相当でない。

三原告高橋義治

1 乙D二七五号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) ぜん息様の症状とは違う。

(二) 慢性気管支炎の症状を満たしていない。

(三) 喉と気管支炎様症状が主なものである。

(四) 喫煙と鳶職の影響を加味する必要がある。

2 同原告は、昭和四七年五月肝臓病のため蘇我病院に約一箇月入院して治療を受けたが、せきとたんについては治療を受けなかった。昭和四八年一一月七日小田島光男医師から病名を「慢性気管支炎」とした検診書を作成してもらい、市条例による認定申請をしたが、認定を受けられなかった。昭和四九年一一月三〇日小田島医師から再び病名を「慢性気管支炎」として検診書を作成してもらい、公健法による認定申請をして、「気管支ぜん息」級外の認定を受けた(甲D一二三号の三及び高橋義治の供述)。しかし、同原告が気管支ぜん息に罹患したとの医師の診断書は存在せず、高橋の供述によれば、同原告は、小田島医師から「気管支炎である。」と言われ、その治療を受けていた事実を認めることができる(右の供述のうち、「小田島医師から、気管支ぜん息と言われたことがあった。」との部分は信用することができない。)。

3 したがって、公健法による疾病認定権者がどのような根拠に基づいて「気管支ぜん息」と認定したのか、その根拠は不明である。しかし、同原告の長男高橋和寿及び二男和橋茂之がいずれも「気管支ぜん息」と認定されていることがあり、症例検討にも「義治のは軽いぜん息があった。」との見解があったこと(乙D二七五号)に照らせば、公健法による認定を排斥すべき根拠も見出し難いので、その認定に従うほかないものというべきである。そうすると、原告義治は、昭和四九年一一月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

4 そして、<証拠>によれば、同原告は、肝臓を患う前から喫煙し、昭和六〇年八月当時にも喫煙を続けていた事実を認めることができる。しかし、大気汚染の状況に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、同原告の喫煙の状況(その程度は不明である。)は右の認定を左右するに足りず、他に右の認定を左右するに足りる証拠はない。

四原告高橋和寿

1 乙D二七五号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、「ぜん息性気管支炎からぜん息という流れの象徴的なもののようである。遺伝的な素因とアレルギーの両方が関与してその病態を作ってきた。」と考察した事実を認めることができる。

これによっても、同原告は、昭和四三年一二月ころぜん息性気管支炎に罹患し、昭和四九年一一月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

2 父原告高橋義治が気管支ぜん息と認定され、弟原告高橋茂之が原告和寿と同じ疾病と認定されていることに照らせば、同原告の疾病の発症には遺伝的素因が関与したものと推測することができる。しかし、遺伝的素因については推測の域にとどまるのであって、確実な証拠があるわけではない。同原告にアレルギーの素因があるとの事実を認めるに足りる証拠はない。

3 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被ったぜん息性気管支炎及び気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

五原告高橋茂之

同原告については、前記四の原告高橋和寿について認定し説示したのと同じである。ただし、兄弟の身分関係を除き、「原告和寿」を「原告茂之」と、「原告茂之」を「原告和寿」とそれぞれ読み替える。また、原告茂之は、昭和四七年ころぜん息性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

六原告秋葉広子

1 乙D二七四号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、「極く普通のアトピー型ぜん息である。主な原因はハウスダスト・アレルギーである。」と考察した事実を認めることができる。

これによっても、同原告は、昭和四三年秋ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

2 秋葉広子の供述によれば、同原告は、昭和五〇年に今井町診療所でアレルゲンテストを受けたところ、ハウスダスト皮内反応が陽性になったので、そのころから昭和五六、七年ころまで減感作療法を受け、ペットとして同年ころから小鳥二、三羽を、昭和五四、五年ころから犬二匹をそれぞれ飼っていた事実を認めることができ、また、同原告は、昭和四三年六月三〇日に三三歳で長女を出産した後に、せきとたんの症状が重くなったものである。そこで、症例検討では、「出産後ぜん息であり、それが増悪因子であっても、基本はハウスダストによるアトピー型ぜん息、である。」としているのであるが、ハウスダストアレルギーが何時から発現したのか判然としていないし、減感作療法の効果が十分に現れなかった(秋葉の供述)というのであるから、症例検討による考察のみをもって、アトピー型ぜん息、であると認定するのは相当でない。

3 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

七原告穴見トモエ

1 <証拠>によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 珪藻土肺を考えてみる必要があるが、これはレントゲン検査をしてみないと分からない。

(二) 昭和四〇年ころから慢性気管支炎様症状がある。

(三) 昭和四〇年以後は慢性気管支炎か肺炎後の気管支拡張症である。

2 同原告の夫穴見栄馬は昭和の初めころから昭和一八年ころまでコンロ製造業を営んでいたが、同原告の発症の時期が遅れていることに照らしても、症例検討による考察から直ちに同原告が珪藻土肺に罹患したと認めるのは相当でない。

同原告は、昭和三五、六年ころから気管支炎様の症状を示すようになったが、昭和三八、九年ころから東起業で廃液の浮遊物すくい取り作業に従事し、昭和四〇年肺炎に罹患して約一週間入院した後、せきとたんを伴う症状を繰り返し、昭和四四年ころから症状が増悪して、昭和四七年からその症状が著明になった。ところで、症例検討は二回にわたって行われ、第一回目には「慢性気管支炎でいい」という意見も示されていて、二回を通じ慢性気管支炎を否定する見解は示されなかった。また、第一回目には「後肺炎性気管支拡張症」と断定するような見解が示されたが、第二回目にはそのような断定的見解が示されず、「慢性気管支炎症状が上気道炎の繰り返しによって増悪している。」とされている。これらによっても、気管支拡張症であると認定するには資料が足りないものというべきである。

そして、同原告が肺炎の治療のために入院し、それが治癒したと診断されて(小田島光男の証言)、廃液浮遊物除去作業に復帰し、その後にせきとたんを伴う症状が増悪したことに照らせば、同原告は、遅くとも昭和四四年ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

3 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

八小高宗彦

1 <証拠>によれば、梅田博道らは、宗彦の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 素直に読めば、肺気腫である。

(二) 昭和二一年から昭和四八年まで喫煙していれば、肺気腫になってもおかしくない。

(三) 肺気腫の原因はタバコ以外に考えられない。

(四) タバコが唯一無二の原因とは断定できない。加齢による自然の機能老化現象も、その原因である。

(五) 大気汚染の場合考えられる肺気腫は、慢性気管支炎から進行したものしかない。

(六) オゾンや窒素酸化物の場合、大量に高濃度暴露をすれば、肺胞だけが選択的に破壊されることもあり得るが、現実にはそのような大量、高濃度の暴露はない。

2 症例検討に照らしても、宗彦は、肺気腫に罹患したと認めることができる。

発症の時期について考察するに、<証拠>によれば、「小田島医師は、宗彦に対し、何度も『以前に何か苦しいことがなかったか。』と聞いたが、宗彦は、『そういう記憶は全然ない。昭和三七年ころになって、階段を上がる時に息切れするようになった。』と答えた。」事実を認めることができ、症例検討では昭和三七年(宗彦五四歳)ころを肺気腫の初発時として考察を進めている。しかし、宗彦は、昭和四八年ころから小田島医師の診察を受けるようになったのであり、その際に「以前に何か苦しいことがなかったか」という質問を受けても、十分に症状を説明することはできなかったものと推認することができる。また、小田島の証言によれば、「宗彦は、先行感染がはっきりしないままの状態でこのような病気になった、と思った。」というのであり、症例検討でも、「そのときに初めて病識を持った、と理解する。」というのであるが、小田島医師は、昭和五〇年一月二九日の検診書に、「昭和四九年三月千葉大病院入院の際上記病名が確定する。」と記載している。それに、症例検討では、「昭和四八年まで喫煙していれば、おかしくない。」としているのであって、その初発時に昭和三七年ころと見るべきであるとする根拠は特に示していない。

そして、宗彦は、昭和三七、八年から風邪を引き易くなり、せきとたんを伴っていた上、昭和四七年ころからせき込みが激しくなっていたのであるから、宗彦は、昭和四八年ころに至って肺気腫に罹患したと認めるのが相当であり、昭和三七年ころをその初発時と認定するのには、その証拠が足りないものというほかない。

3 小高さくの供述によれば、宗彦は、昭和二一年ころから昭和四八年ころまで喫煙していた事実を認めることができるのであるから、その喫煙量は定かでないけれども、期間が長いことから、その喫煙は肺気腫の発症に原因を与えたものと見るのが相当である。また、宗彦は、六二歳になるまで千葉市役所に勤務し、六五歳で発症したのであるが、肺気腫の発症が喫煙と加齢のみによるものであったと認めるのには、これを裏付ける証拠が足りないものというべきである。

そして<証拠>によれば、宗彦は、肺気腫に罹患した後、肺機能が著しく低下して、呼吸が困難となり、死亡するに至ったものと認めるのが相当である。

4  したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と宗彦の被った肺気腫及びこれによる死亡との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

九芦野寅吉

1 乙D二七七号によれば、梅田博道らは、寅吉の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 心電図を見ると、陳旧性の心筋梗塞があったところに、「急変」の時更に新しい心筋梗塞を起こした。

(二) 高血圧が長く続き、高血圧性心疾患から左心不全となって、心筋梗塞になった。

(三) それに喫煙が修飾因子として加わっている。

(四) 慢性気管支炎に無理にこじつける必要はない。めまいは高血圧から生じ、浮腫及び息切れは心臓疾患から生じたものであって、いずれも慢性気管支炎では考えにくいものである。

2 寅吉は、昭和三〇年ころまでに高血圧症になっていて、昭和四六年三月には最高二二〇、最低一二〇を示し、高血圧症と心臓病を疑われたため、肺機能検査を受けることができなかった上、そのころ入院中の蘇我病院で心臓が悪いと診断された。また、乙D二八八号の二の一、二によれば、寅吉は、昭和四六年三月当時身長149.8センチメートル、体重六五キログラムの肥満体であり、二三歳のころから一日二〇本くらいの程度で喫煙していた事実を認めることができ、芦野正夫の証言によれば、寅吉は、入院して喫えなくなるまで、喫煙を続けていた事実を認めることができる。それに心筋梗塞で死亡したことからみても、寅吉は、高血圧症及びこれに起因した心臓疾患に罹患していたものと認めることができる。

しかし、寅吉は、昭和四三、四年から軽いせきやたんが出るようになり、昭和四五年にはせきとたんに苦しむようになって、今井町診療所に通院するようになり、昭和四六年三月ころ蘇我病院に約一週間入院して気管支炎の治療を受けていた上、小田島医師も、心不全のほか慢性気管支炎であると診断していた(甲D一七五号の二)のであるから、寅吉は、昭和四五年ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

3 そして、寅吉の症状に照らせば、寅吉は、慢性気管支炎と心臓疾患の合併症を患っていたと認めることができる。また、寅吉は、二三歳から約五五年間にわたって一日約二〇本の喫煙を続けていたのであり、その喫煙は慢性気管支炎の発症に少なくない影響を与えたものと推測することができる。しかし、大気汚染状況と対比すれば、その程度の喫煙でも大気汚染の影響を切断するまでには至っていなかったと見るのが相当である。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と寅吉の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

一〇原告谷内栄三郎

1 乙D二七二号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 昭和四〇年に今井町診療所で急性気管支炎と気管支拡張症と診断されたというのであるが、この症例は慢性気管支炎か気管支拡張症か、この資料だけでは鑑別することができない。

(二) 慢性気管支炎であり、時によって心臓の症状が出ているが、これは高血圧がからんでいる。

(三) 主たるものは慢性気管支炎であるが、他の気道疾患の合併もあると思われる。

(四) 原因は職業環境・職業歴にあったと思われる。溶接の影響が大きい。

2 同原告は、昭和一八年ころ肋膜炎になったが、昭和二〇年五月から兵役に服したことに照らせば、肋膜炎は治癒していたと見ることができる。また、乙D二〇二号の三の一、二及び谷内栄三郎の供述によれば、「同原告は、昭和四三年一〇月レントゲン間接撮影の結果、精密検査を要すると判定され、労災協会病院で精密検査を受けて、要注意と判定されたほか、昭和四八年四月レントゲン間接撮影の結果、右の肺の上方に小さい固まった結核の跡があって、精密検査を要すると判定され、同年七月今井町診療所でその検査を受けた。」事実を認めることができるのであるが、乙D二〇二号の三の一によれば、同原告は、昭和四九年四月のレントゲン撮影の結果、異常なしと判定された事実を認めることができ、乙D二七二号によれば、症例検討では同原告の結核について格別の考察をしなかった事実を認めることができる。これによれば、仮に同原告が結核に罹患したことがあったとしても、その既往症は重要視されることがなかったものということができる。

<証拠>によれば、「同原告は、昭和四〇年五月ころ今井町診療所で、急性気管支炎と気管支拡張症であると言われた。」というのであるが、乙D二七二号によっても、気管支拡張症を鑑別するのには、気管支造影等の精密な検査を必要とする事実を認めることができるので、右の供述等から直ちに同原告が気管支拡張症と診断されたと認めることはできないものというべきである。症例検討では、「気管支拡張症が本当なら、その後の経過とか増悪も全部スムーズに考えることができる。」との見解も示されたが、結局は気管支拡張症と鑑別することはできないとされた。

3 同原告は、昭和四四年冬ころから今井町診療所で気管支炎と診断され、投薬を受けていたが、昭和四七年七月の千葉市の集団健康診断では問診を受けたにとどまって、精密検査の指示を受けなかった。ところが、同原告は、昭和四八年秋から冬にかけてせきとたんが止まらなくなり、体調が最もひどい状態となった。このような症状の増悪と症例検討の見解とを合わせて考えると、同原告は、昭和四八年秋ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

4 ところで、同原告は、昭和三一年から東亜外業株式会社に勤務して溶接作業に従事し、昭和五〇年三月同会社を退職したのであるが、<証拠>によれば、同原告は、病気になっても会社を休まないように努力し、昭和五〇年の一月と二月にも休まないで勤務した事実を認めることができる。それゆえ、その努力に照らせば、同原告が病気による欠勤をしなかったことをもって、同原告が疾病に罹患していなかった証左であると見るのは相当でない。また、同原告は、長期間にわたって溶接作業に従事したのであるが、これによる影響を否定することはできないとしても、その作業環境及び作業歴が慢性気管支炎の発症に主要な原因を与えたものと認めるに足りる証拠はないのであって、症例検討における見解をそのまま採用することはできないものというべきである。

5 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

一一原告飯島緑香

1 乙D二七六号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 零歳から三歳まではぜん息性気管支炎の症状、六歳から一二歳までは気管支ぜん息、一二歳以降は労作時息切れである。

(二) アトピーの素因があるから、早く起こった。

(三) ペニシリン・アレルギーの体質がある。

(四) 思春期には良くなるという例である。

2 甲D一二〇号の二によれば、小田島光男医師は、昭和四七年八月五日に「ぜん息性気管支炎」と診断した事実を認めることができる。同原告は、同年七月三〇日市条例により気管支ぜん息と認定されたのであるが、右の小田島医師の診断と症例検討の考察に照らせば、同原告は、昭和四五年一二月ころぜん息性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

同原告は、昭和四八年夏ころから軽快し、昭和四九年四月から保育所に通うようになって、昭和五一年九月非指定地域に転居したが、昭和五二年二月せきのひどい発作に見舞われた。同原告は、昭和四九年一一月三〇日公健法によりぜん息性気管支炎と認定されたのであるが、甲D一二〇号の三によれば、小田島医師は、昭和五〇年一月二五日に「気管支ぜん息」と診断した事実を認めることができ、この診断と症例検討の考察に照らせば、同原告は、昭和五〇年一月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告は、昭和四六年ころアレルゲンテストを受けたが、陰性であった。ところが、飯島千鶴子の供述によれば、同原告にはペニシリン・アレルギーがあった事実を認めることができる。また、千鶴子の供述によれば、同原告方では、昭和四七年五月から昭和五九年一一月まで屋外で雑種の犬が飼われ、昭和五七年一〇月ころからチャボ鳥が飼われ、昭和六〇年二月から猫が飼われた事実を認めることができる。

しかし、同原告のペニシリン・アレルギーが判明した時期は明らかでなく、ペニシリン・アレルギーによって同原告の疾病が発症したとの事実を推認するに足りる証拠もない。また、昭和四七年五月から犬が飼われたが、昭和四八年夏から症状が軽快しており、昭和五二年二月に症状が悪化したことが犬の飼育とどのような関係にあったのかも判然としない。

そして、同原告が生後六箇月の短期間のうちに疾病に罹患し、非指定地域に転居して約六箇月後に症状が増悪したことは、同原告が乳幼児であったこと及びアトピー素因の存在が不明であったことに照らし、大気汚染との係わりを排斥する事由には当たらないものと見るのが相当である。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被ったぜん息性気管支炎及び気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

一二原告大倉キイ

1 乙D二七六号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 慢性気管支炎のせきと違う。慢性気管支炎とするには、症状が重過ぎる。

(二) 成人型気管支ぜん息である。

(三) 感染型ぜん息、あるいは感染型ぜん息と慢性気管支炎が合併したものである。

(四) ハウスダスト・アレルギーがある。

(五) ぜん息の発症には心因反応が強く、その後の経過には喫煙が大きな影響を及ぼしている。

(六) 慢性気管支炎とすれば、原因は喫煙である。

2 同原告は、昭和四三年暮ころからせき込むようになり、当初はせきが中心であったが、二、三年後からたんが出るようになった。このような症状と長野準の証言によっても、同原告は、遅くとも昭和四六年暮ころには慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告の夫は昭和四三年一〇月四日肝硬変で死亡したのであるが、症例検討では、「死後に一段落して、気が緩んで来るときに不安が生じ、そのときにぜん息が出てくることが良くあり、発症にはそのような心因反応が強かった。」としており、また、長野の証言では、「夫が死亡したのと同時に発病したかも知れない。」というのである。しかし、症例検討の考察はぜん息の発症を前提としている上、発症の時期も異なるのであるから、心因反応が慢性気管支炎の発症に影響を及ぼしたものと見るべき根拠はない。

大倉キイの供述によれば、同原告は、昭和四三年一〇月ころまで一日に五、六本くらい喫煙していた事実を認めることができるけれども、それだけではその喫煙が慢性気管支炎発症の主な原因になったものと認めるのに十分でない。

同原告は、昭和四八年二月非指定地域に転居したのに、そのころ慢性気管支炎に罹患したとの診断を受け、その後も症状が軽快していない。しかし、症状の程度によっては、非指定地域に転居しただけで直ちに症状が軽快するとも思われないのであり、症状が軽快するに至らない事由が他にあるとしても、そのことは同原告が本件地域において慢性気管支炎に罹患したとの認定を妨げる事由には当たらない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

一三原告白井さた子

1 乙D二七九号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 僧帽弁狭窄症である。

(二) それに付随した気管支炎様症状である。

(三) リウマチ熱から僧帽弁狭窄症になった。

2 同原告は、昭和五〇年ころ今井町診療所で「心臓に雑音が入っている。」と指摘され、昭和五二年に僧帽弁狭窄症のため東大病院に入院して僧帽弁を人工弁に置換する手術を受けた。また、乙D三一三号の一ないし四によれば、僧帽弁狭窄症は、呼吸困難(発作性夜間呼吸困難)、動悸(僧帽弁閉鎖不全の場合)、咳嗽、血たん、易疲労性、反復性気管支炎(上気道感染を起こし気管支炎を併発し易い。)、チアノーゼ等の症状を示す事実を認めることができ、症例検討では、「同原告の症状は、すべて僧帽弁狭窄で説明できる。」とされている。

しかし、乙D三一三号の四によれば、一般に器質的な僧帽弁狭窄が出現するには、初めてリウマチ熱に罹患してから少なくとも二年ないし三年を要するとされているところ、白井さた子の供述によれば、同原告は、リウマチ熱について記憶を持っていないというのである。また、同原告は、昭和四二、三年ころから喉が痛くなり、せきとたんが出て、季節的にひどくなったこともあり、昭和四五年ころに息切れ、動悸、呼吸困難の症状を呈したものの、その程度は比較的軽いものであったのであるから、それは僧帽弁狭窄の初発症状(甲D二〇四号によれば、息切れ、動悸、呼吸困難があり、これに続いてせき、たんが出る、とされている。)と異なるものであったということができる。そして、長野準は、「昭和四二、三年ころのせき、たんも含めて、一元的に僧帽弁狭窄症と考えて良い。」と証言しているが、「たんが切れない状態で、ズルズルとつながってしまうというのであれば、心臓ぜん息のたんとは違う。」と証言し、また、「肺にうっ血があると考えれば、せき、たんが出ても差し支えないと思う。」と証言している。心炎が発症すれば、聴診所見で心雑音などを容易に認めることができる(乙D三一三号の三)のに、同原告は、昭和五〇年ころまでそれを指摘されなかった。

そうすると、症例検討による考察も、慢性気管支炎の発症を認定するのに妨げとならないものというべきであり、同原告は、昭和四三年ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。そして、僧帽弁狭窄症は、その発症の原因が判然としないのであるが、後に合併して発症したと見るのが相当である。

3 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

一四原告斉藤富与

1 乙D二七六号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 中高年発症のぜん息である。

(二) アレルギーもあるから、混合型である。

(三) 大気汚染との係わりはない。

2 症例検討に照らしても、同原告は、昭和四二年ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 斉藤富与は、「風邪を引いた時には、くしゃみが出るし、鼻水も出る。」と供述し、「アレルギー検査を受けて、これくらい大したことはない、と言われた。」と供述しているが、「アレルギー検査(ハウスダスト)では、陰性と言われた。」と供述しているのであり、アレルギーが発症の原因であったと認めるのは相当でない。

同原告は、非指定地域に転居した後、一時を除いて、症状が軽快し、ゲートボールに興じたりしているが(斉藤の供述)、本件地域に居住していたころの大気汚染の影響を無視することはできない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

一五原告深山源次

1 <証拠>によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 混合型の気管支ぜん息であり、感染のファクターが大きい。アトピー素因もある。

(二) 肺性心は不明である。

2 同原告は、昭和三三年ころから風邪を引くようになり、せきとたんが止まらなくなった。昭和三五年一一月三日急に胸が苦しくなり、呼吸困難に陥って、蘇我病院から往診を受けた。

<証拠>によれば、同原告は、昭和三三年ころ青木医院で慢性気管支炎と診断されたというのであるが、その供述のうちには、単なる気管支炎であったとの供述もあるので、慢性気管支炎と認定するのは相当でない。右のような症状に、甲D一二五号の二、症例検討及び深山の供述を合わせて考えると、同原告は、昭和三五年一一月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 深山の供述によれば、同原告は、二女真理子(昭和二八年四月二四日生。甲D一二五号の一による。)とともにじん麻疹が良く出る体質で、皮膚が弱いと言われたことがあり、昭和三五年一一月ころ蘇我病院でぜん息と言われた後、二年ないし三年にわたって体質改善の注射を受けた上、長女純子(昭和二五年九月九日生。甲D一二五号の一による。)の娘が昭和五六年ころぜん息様の症状を呈した事実を認めることができる。

また、同原告は、昭和三三年ころから風邪を引き易くなって、昭和三五年一一月には気管支ぜん息に罹患し、昭和三八年一一月から木更津郵便局に、昭和四一年四月から大原郵便局に、昭和四四年六月から茂原郵便局にそれぞれ勤務したのに、症状は後になるほど悪くなるばかりであった。深山の供述によれば、同原告は、退職した後には昭和五七年に最もひどかった、というのである。

4 したがって、同原告にはアレルギー的素因があったのではないかと推認することができないわけでもないが、同原告の疾病がそのアレルギーを原因として発症したものとまで認めるに足りる証拠はないものというほかない。

また、症例検討(乙D二七二号)では、「同原告が昭和四五年五月に気管支肺炎を患い、たんが黄色のものであったことから、感染性を疑うこともできる。」とするのであるが、疾病の発症について感染の要素を重く見ているわけでもない。

すなわち、症例検討における考察だけでは、同原告の疾病がアレルギーと感染を原因とする混合型の気管支ぜん息であると認めるのに十分でないものというほかない。

また、深山の供述によれば、同原告は、仕事の都合で各勤務先に宿泊することもあったが、いずれも自宅から各勤務先に通勤していた事実を認めることができるのであり、同原告は、大気汚染の暴露を受け続けていたのであって、疾病の発症に対する大気汚染の影響を無視するのは相当でない。

5 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

一六原告塚原ふぢ

1 <証拠>によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 気管支ぜん息と左心不全である。

(二) ぜん息の原因は感染である。

(三) ステロイド依存性のもので、難治性である。

2 症例検討に照らしても、同原告は、昭和四八年ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告は、昭和四九年二月ころからせき、たん等のほか、喉の痛み、発熱等があったのであるが、症例検討ではこれを感染で症状が増悪したものとしており、また、黄色のたんをもって感染型のぜん息であるとしている。同原告は、六二歳で罹患したのであるが、それ以前の昭和四七、八年からせき、たん、息切れ、呼吸困難等の症状があったのであるから、感染のみをもって発症の原因であったと見るのは相当でない。

第一回目の症例検討においては、「大気汚染が発病因子としてではなく、増悪因子として疾病に関係があるのかも知れない。」とされている。

症例検討によれば、血圧二〇〇という高血圧性の心疾患が症状の増悪に影響を及ぼしていることを否定することはできないとしても、本体は難治性のぜん息であるというのである。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

一七原告唐橋由子

1 乙D二八〇号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) アトピー型ぜん息である。

(二) ステロイド依存性になっている。感染性のファクターも入っている。

(三) 症状の経過が大気汚染の状況と符合しない。

2 同原告は、昭和三九年ころ突然息苦しくなって、昭和四〇年ころからゼイゼイし、せきが出て、呼吸困難に陥ることがあった。昭和三九年ころ朝倉病院で気管支ぜん息と診断され、昭和四二年夏ころ同病院に約一週間入院して治療を受けた。これによれば、症例検討に照らしても、同原告は、昭和三九年ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

したがって、同原告は、横浜市南区上大岡に居住し、アサヒビール大森工場に勤務していた時に罹患したことになる。

3 同原告は、昭和四三年一〇月アサヒビール大森工場を退職して唐橋敏江と婚姻し、本件地域に転居して昭和四五年一二月に長男を、昭和四九年五月に二男をもうけた。

ところが、同原告は、昭和四七年ころからせきがひどくなり、ゼイゼイ・ヒューヒューが頻繁に起きて、昭和四八年五月ころから今井町診療所で診療を受けるようになった。服薬を励行していれば、発作を抑えることができ、せきとたんも消失していたが、昭和五一年末に発作が起きて一週間以上入院し、その後は発作が多くなるばかりで、昭和五五年に入院したほか、昭和五八年に四回、昭和五九年に七回、昭和六〇年に九回それぞれ重症の発作が起きて入院した。

4 同原告は、昭和四八年ころハウスダスト・アレルギーであることが判明し、減感作療法を受けたが、発作が起こったので、五、六回で中止した。

また、唐橋由子の供述によれば、同原告の夫は、小鳥を飼うのが好きで、沢山の小鳥を飼っていたところ、千葉市の保健婦から『同原告のために良くないから、処分するように。』と言われ、これに応じて処分したのであるが、再び小鳥を飼い始め、現にインコ一羽と目白一羽を飼っている事実を認めることができる。

同原告の疾病の発症の原因は定かでない。同原告は、昭和四三年一〇月敏江と結婚したが、敏江が何時ころから小鳥を飼っていたのかも定かでない。しかし、同原告がハウスダスト・アレルギーであり、敏江が多数の小鳥を飼っていたことは、同原告の症状を増悪させる要因になったものと認めることができる。

5 症例検討では、「二一歳で発症し、薬を飲むと効く、ハウスダストが陽性で、減感作療法の注射で発作が起きる。」ということから、アトピー型ぜん息と考えていい、というのであるが、「重症になった原因はアトピーだけでいいのか。ステロイド依存性とは別に感染性のファクターが入ってきているということで、全部説明ができる。」という問答が交されている。

同原告は、昭和四三年一〇月以降も朝倉病院及び今井町診療所から薬をもらい、服薬を続けていた(甲D一七六号の二、唐橋の供述)のであるが、昭和四七年ころからせきがひどくなり、昭和五一年末ころから症状が悪化した。右のような症状の悪化について感染の要因がどのような影響を及ぼしたのか、これを認定するに足りる証拠はない。また、ステロイド依存性についても、それがどのようなものであったかを知り得る手掛かりがない。したがって、症例検討における考察をそのまま採用するのも相当でない。

6 同原告が服薬を続けていたのに、昭和五一年末ころから症状が悪化し、昭和五五年以降重症の発作に見舞われてしばしば入院したことから見ると、大気汚染状況の推移に照らし、大気汚染以外の要因が疾症の増悪に少なくない影響を及ぼしたものと推認することができる。しかし、前記4のような要因があったことを考慮に入れてもなお、大気汚染が疾病の増悪に影響を及ぼすものでなかったとまで見るのは相当でない。

7 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息の増悪との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

一八飯島治郎

1 乙D一六一号、同二七七号によれば、梅田博道らは、治郎の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 結核で胸郭成形術をした後遺症として代償性に気腫性変化を起こし、肺気腫になった。合併肺気腫である。

公健法でいう閉塞性肺疾患とは発生病理が違い、大気汚染は病因とならない。

(二) 気管支ぜん息から肺気腫になることはほとんどない。

(三) 昭和三四、五年のぜん息様発作は、ぜん息かどうか不明である。

(四) 職業と喫煙からぜん息様発作が起きた可能性がある。

2 治郎は、昭和三九年一〇月レントゲン検査を受けて、結核の治療のため同年一一月千城園に入院し、昭和四一年五月ころ右胸郭成形術を受けて、昭和四二年三月退院した。その二、三年後からせき、たん、息切れ、呼吸困難等の症状が現れて、それが次第に増強し、昭和四八年二月千葉東病院に入院して治療を受け、同年八月退院した。

ところで、治郎は、昭和四七年五月一一日市条例により肺気腫と認定されたのであり、症例検討に照らしても、治郎は、肺気腫に罹患したと認定するのが相当である。

3 治郎は、昭和三四、五年ころからぜん息様の発作が起きるようになった。

右の事実を認定するのは、甲D三五号の七及び小田島光男の証言によるものであるが、小田島の証言によれば、小田島光男医師は、問診の際治郎から聞き質して、検診書に右のような事項を記載した事実を認めることができ、また、小田島は、「結核ではなかったんじゃないかと思っている。」と証言している。

甲D二〇四号によれば、「まず最初に気管支ぜん息若しくは慢性気管支炎(現に昭和五〇年には慢性気管支炎の診断を受けている。)に罹患し……と考えられる。」とするのが、医学上常識的であろう、というのであるが、治郎は、当時東京方面等で板金の仕事をしていたのであり、その前後関係も明らかでなく、唐突に「ぜん息様の発作が起きるようになった。」というだけでは、その実態を把握することが困難であるというほかない。昭和五〇年の慢性気管支炎については後記のとおりである。

症例検討においても、「結核と別なのか、結核が始まっていたのか、どちらとも言いきれない。」としている。

4 乙D六〇号の三、同九〇号の二及び症例検討(同一六一号、同二七七号)によれば、胸郭成形術の結果、その後遺症として肺機能の低下が起き、慢性気管支炎様症状を起こすことがあって、それが進行し、肺気腫になることがある事実を認めることができ、小田島も同趣旨の証言をしている。

したがって、症例検討に従い、治郎は、胸郭成形術の後遺症として、昭和四二年三月から二、三年後(遅くとも昭和四七年五月ころ)に肺気腫に罹患したと認めるのが相当であり、甲D二〇四号及び小田島の証言は右の認定を左右するに足りず、他に右の認定を左右するに足りる証拠はない。

5  治郎は、昭和四九年一一月三〇日公健法により慢性気管支炎・肺気腫一級に認定された。

甲D三五号の七及び小田島の証言によれば、右の認定手続に際し、小田島医師は、病名を「慢性気管支炎、肺気腫、これらの続発症慢性肺性心」とした昭和五〇年一月二四日付けの「検診書」を作成し、これを認定審査会へ提出した事実を認めることができ、この点について、小田島は、「肺気腫そのものについては結核も否定できないと思うけれども、それ以外の因子によっても起きてきたんじゃないかと思っている。つまり、肺機能が低下していたという状態のために、感染を起こし易いということもあったと思う。」と証言している。

治郎は、昭和四八年八月千葉東病院を退院した後は、毎年冬になると寝たり起きたりの状態になり、昭和五〇年ころには手元にネプライザーを置いて、これを使用していた。

ところで、右の「検診書」には、「昭和三四・三五年ころからぜん息様の発作が起きるようになったが、次第に病状悪化し、咳嗽、喀たん、呼吸困難等が著明となる。」と記載されている(甲D三五号の七)が、治郎は、昭和三九年一一月から昭和四二年三月まで入院して結核の治療を受け、それが完治していたのであるから、昭和三四、五年ころのぜん息様の発作について次第にその病状が悪化したということはなかったものというべきである。

胸郭成形術の後遺症による肺機能の低下に伴って慢性気管支炎様症状を起こすことがあるのであり、これは慢性気管支炎と区別すべきものである(症例検討)が、小田島医師がその区別をして診断をしたのか判然としていない。肺気腫と合併して慢性気管支炎が発症したものとすれば、その独自の症状及び発症の時期があるはずであるが、これらの事実を認めるに足りる証拠はない。治郎は、昭和四二年三月から二、三年後にせき、たん、息切れ、呼吸困難等の症状が現れ、それが次第に増強したのであるが、昭和四七年五月一一日には肺気腫のほかに慢性気管支炎の認定がなされなかったのであるから、昭和四七年五月より前に慢性気管支炎が発症していたものと認めるのは相当でない。

したがって、治郎は、昭和四九年一一月当時にも肺気腫に罹患していたと認めるのが相当であるが、肺気腫とは別個に慢性気管支炎に罹患したとの事実についてはこれを認めるに足りる証拠がなく、治郎は、胸郭成形術の後遺症として慢性気管支炎様症状を呈していたにとどまっていたものと認めるのが相当である。

6  そうすると、治郎が遅くとも昭和四七年五月に罹患し、その後も継続した肺気腫は、結核による胸郭成形術の後遺症として発症したものというべきであるから、大気汚染の状況はその発症に影響を及ぼさなかったものというべきである。また、治郎は、昭和四九年一一月三〇日慢性気管支炎患者と認定されたのであるが、それも胸郭成形術の後遺症による慢性気管支炎様症状にとどまるものであったのであるから、右と同じようにいうことができる。

一九原告中野一枝

1 乙D二七八号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 昭和四五年九月に発症している。

(二) 典型的な小児ぜん息である。

2 同原告は、昭和四五年九月ころからせきをするようになり、同年一二月ころから具合が悪くなってぜん鳴を伴うせきとたんが出るようになった。同原告は、昭和四六年六月ころ小田島光男医師から「ぜん息性気管支炎」と診断され、小田島医師は、病名を「ぜん息性気管支炎」とした昭和四七年五月一九日付けの検診書を作成している(甲D一八〇号の二)。もっとも、小田島医師は、その検診書に附記事項(経過・現症・大気汚染との関係等)を記載していない(甲D一八〇号の二)。

理由の部第七章第一の五に記載したとおり、ぜん息性気管支炎と称されているものの病像には、反復性気管支炎、アレルギー性気管支炎(気管支ぜん息前段階)、慢性気管支炎(稀)、乳児期気管支ぜん息(重症型は除く。)及び小児期気管支ぜん息軽症型の各疾病が含まれるとされ、これらの疾病の診断は容易でないとされている。

したがって、症例検討では典型的な小児ぜん息であるとしているけれども、そこにはぜん息性気管支炎を認める見解も示されているのであり、同原告は、昭和四五年一二月ころぜん息性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

3 中野喜代子の供述によれば、同原告は、昭和五一年三月ころ五〇種余のアレルゲンテストを受けて、いずれも陰性であった事実を認めることができ、症例検討でも、「アトピーかどうかは、資料が出ていないから分からない。」としている。したがって、同原告の親が白旗一丁目のアパートで小鳥を飼っていたこと(喜代子の供述)が同原告の疾病の発症に影響を及ぼしたものと見るのは困難である。

原告は、昭和四五年一二月から昭和四八年一〇月まで本件地域に居住したのであるが、昭和四五年四月から一二月までは日中の九時間ないし一〇時間本件地域の知人又は保育所に預けられていた。それに、症例検討でも、「病気は外因と内因との兼ね合いであるが、一般的に乳児は大人よりは低い濃度でも影響を受け易いだろうと言うことができる。」とされている。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被ったぜん息性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

二〇原告平山征夫

1 乙D二七二号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) ぜん息である。

(二) 主因はハウスダストアレルギーである。

(三) 食物アレルギーが重要である。

(四) 大気汚染が主因であれば、六人の子のうち一人だけということはないはずである。

(五) 生まれつきの素因がないと説明がつかない。

(六) かなり高濃度の場合に、本来なら影響を受けないような種類の汚染でも、乳児期には刺激によってぜん息に似たような症状が起こることがあり得る。その汚染の程度がどの位なのかという点は何も分かっていない。

(七) 親の喫煙が第一に問題となる。受動喫煙もかなり高濃度になる。

2 同原告は、昭和四五年三月ころ風邪を引いて、せきが出たので、診療を受け、同年四月末か五月初めころからヒューヒューという息がつまったようなせきが出るようになったというのであるから、症例検討に照らしても、同原告は、同年五月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 平山平八郎の供述によれば、同原告には昭和四三年六月生まれの兄、昭和四六年一月生まれの妹、昭和四七年四月生まれの妹、昭和四九年五月生まれの弟及び昭和五〇年四月生まれの妹があるが、同原告だけがぜん息に罹患し、その余の五人はいずれも元気に育っている事実を認めることができる。

同原告は、昭和四八年一一月アレルギー検査を受けて、ハウスダスト・アレルギーであることが分かり、そのころから三年間減感作療法を受けたが、効果が出なかったので、これを中止した。同原告が食物アレルギーであるとの事実を認めるに足りる証拠はない。

<証拠>によれば、同原告の父平山平八郎は、昭和三四年千葉製鉄所に養成工四期生として就職し、昭和三九年八月千葉製鉄所を退職して、千葉市を離れたが、昭和四二年同市に戻って、義兄が経営していた高梨板金(会社)に就職し、蘇我町、南町、今井町、末広町あたりを中心にトタン屋根の屋根葺工事等に従事していた者であり、昭和五三、四年ころまで喫煙していた事実を認めることができる。

ところで、同原告は、昭和四六年六月ころ発作が激しくなり、昭和五五年と五六年に症状が最も重かったのであるが、順次出生していた兄、妹三人及び弟らがいずれも同じ環境の下に育っていたのに、これらの者には何ら症状が現れず、同原告だけが疾病に苦しんでいたことになる。そうすると、同原告には他の者には見られない生まれつきの素因があったものと推測することができるのであるが、同原告にはハウスダスト・アレルギーがあることが判明している。ところが、症例検討では、主因はハウスダスト・アレルギーであるとしながらも、他にも何か発症原因となったものがあるはずであるとして、これを模索し、アレルギー性の家族歴とか、食物アレルギーとか、感冒等の発作誘因とかを調べてみなければならないとしている(乙D二七二号)。すなわち、ハウスダスト・アレルギーだけでは、同原告の症状を説明することができないというのである。

同原告ら六人は、いずれも大気汚染と受動喫煙にさらされてきたところ、症例検討では大気汚染の影響を否定しているのであるが、六人の間に差があるのは、それに暴露された機会と汚染物質の量によるものであって、抵抗力の弱い乳児であった同原告が生後間もなく本件地域に転入したことは、何らかの意味があるのではないかと推測することができるのであり、大気汚染による影響を看過することは相当でないというべきである。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

二一原告福田有作

1 乙D二七九号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 喫煙によるせき、たんである。

(二) 普通の年寄りである。

(三) タバコ慢性気管支炎と言えないこともない。

2 同原告は、昭和四〇年(六五歳)ころからせきとたんが出るようになり、昭和四六年(七一歳)初めころからひどくなって、千葉東病院の医師から慢性気管支炎であると告げられた。

ところで、同原告は、昭和二四年から昭和四三年まで会社の代表取締役として千葉市から横浜市緑区長津田まで片道三時間の通勤を続け、その後も昭和五〇年まで会社の顧問を続けていたのであるから、同原告の症状について、これを老化に伴う自然的生理的現象に過ぎないと見るのは合理的でない。

また、同原告は、昭和四七年九月二五日市条例によってぜん息性気管支炎と認定され、昭和四八年七月一七日市条例によって慢性気管支炎と認定されたのであるが、ぜん息性気管支炎と称されているものの病像に照らせば、同原告がその疾病に罹患したと認めるのには疑問があり、そのように認定するに足りる証拠もない。

したがって、同原告は、昭和四〇年ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

3 同原告は、昭和二四年から昭和四三年まで長津田の会社へ通勤し、その間昭和三八、九年ころからは一日置きに長津田に寝泊りした。しかし、それだからといって、同原告が本件地域において大気汚染の暴露を受けなかったということはできない。

福田栄の供述によれば、原告福田有作は、遅くとも昭和一〇年(三五歳)ころから喫煙し、四〇歳代には毎日一〇本くらい喫っていて、昭和五〇年(七五歳)ころには一箱一〇本入りを三日くらいで喫うようになり、昭和五八年ころまで喫煙を続けていた事実を認めることができる。しかし、甲D一五〇号の一及び福田の供述によれば、原告有作は、昭和四九年から昭和五五年にかけて長崎市、仙台市、徳山市、北条市等にとう留したとき、せきが止まっていた上、昭和五五年ころからせきの出る回数が減ってきた事実を認めることができるのであるから、同原告が喫煙による影響を受けたことを否定することはできないとしても、大気汚染による影響を受けたこともまた否定することができないものと見るのが相当である。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

二二原告市原満津

1 乙D二七三号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 気管支ぜん息である。

(二) 高齢発症(昭和三八年、五一歳)であるから、内因型か混合型である。

(三) 内因としては、第一に低血圧症がある。

(四) アレルギー性の素因(鼻炎)がある。

2 甲D二〇四号によっても、実際の臨床においては、気管支ぜん息、慢性気管支炎及び肺気腫の診断をするについて、これを明解に区別することが困難な症状がある事実を認めることができる。

長野準の証言によれば、同原告の昭和三八年ころの症状は急性炎症であって、慢性気管支炎の症状でも、ぜん息の症状でもなく、「せき、たんは一年中続き、秋の終わりころから春にかけて症状が重い。風邪を引くと、せき、たんが更にひどくなり、呼吸が苦しく、ぜん鳴がする。」との症状は、慢性気管支炎の症状として、これを積極的に否定する理由はない、というのである。

したがって、同原告に生じた症状に照らし、同原告は、昭和四一年ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

3 症例検討では、同原告が気管支ぜん息に罹患したとの事実を前提として、発症の原因が低血圧症及びアレルギー素因にあったとしている。したがって、右の考察は的を射ていないものというべきである。

もっとも、同原告が昭和四一、二年からくしゃみ、鼻水、咽頭炎を繰り返していたことは、アレルギー性鼻炎に罹患していたことを推認させるものということができ、また、市原満津の供述によれば、同原告は、昭和六〇年一月ころ血圧が最高一一二、最低六八位であった事実を認めることができるので、長野の証言に照らしても、同原告は、低血圧の傾向にあったものということができる。

しかし、右のような要因が同原告の慢性気管支炎の発症に影響を及ぼしたとの事実を認めるに足りる証拠はない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

二三原告佐伯節子

1 乙D二七七号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 症状がぜん息に似ている。

(二) 上葉切除に伴う気管支拡張症と考えることも可能である。

(三) 慢性咽・喉頭炎かも知れない。

(四) ぜん息のほかに扁桃炎がある。

(五) アレルギー性が強いぜん息を考えるべきである。

2 同原告は、昭和三五年三月肺結核に罹患して日本医大病院に入院し、右上葉の肺切除術を受けて、昭和三七年一一月ころ同病院を退院し、昭和三九年六月から本件地域に居住するようになった。

症例検討によれば、上葉切除術を受けても、それが完治すれば、これによる肺機能の低下は起こらないものと認めることができ、また、佐伯節子の供述によれば、同原告は、本件地域に転居して父の園芸業を手伝っていたが、父と母がいずれも健康を害していたのでほとんど一人でその店を切り回していた事実を認めることができる。

同原告にアレルギー性の素因があったとの事実を認めるに足りる証拠はない。

同原告は、症状が重くなると、横になって寝ていることができず、背中を丸め、膝を抱え込んで、じっと我慢していたのであるが、これをもってぜん息に固有の起坐呼吸に当たるものと見るべきであるとするのは相当でない。

同原告の症状をもって気管支拡張症、慢性咽・喉頭炎、扁桃炎と見るべきであるとする点については、いずれも可能性を手探りしているに過ぎないものであって、合理的な根拠を示しているものと見るのは相当でない。

そうすると、同原告の症状に照らし、同原告は、昭和四二年ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

3 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

二四原告小林寿子

1 乙D二七三号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 結核以外の気管支に異常があるというと、気管支拡張症が一番考えられる。

(二) そうでないとすれば、せきぜん息である。

(三) アレルギー性鼻炎がある。

2 同原告は、昭和四八年四月ころレントゲン検査を受けて、「結核以外の気管支に異常がある。」と言われたのであり、症例検討では、このほかに「血たんが出ること、喫煙しても誘発に関係がないこと」などから、気管支拡張症であると考察している。

しかし、症例検討においては、「同原告に見られた症状を、気管支ぜん息の症状として説明することができる。」との見解も述べられているのであって、同原告の症状から見て、これを気管支拡張症であると断定するのには、その根拠が足りないものというほかない。

同原告の症状に照らし、同原告は、昭和四六年三月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告は、昭和四六年三月ころからくしゃみが出るようになり、朝方にはくしゃみと鼻水が伴っていたというのであって、小林寿子の供述によれば、同原告は、症状がひどいときには、午前五時か六時ころになると、布団の中にいてくしゃみが始まり、それが「見事に、面白いほどに」出るので、寝ていることができず、起き上がっていた事実を認めることができる。

ところで、長野準の証言によっても、アレルギーと気道過敏性とは異なるものである事実を認めることができるところ、小林の供述によれば、同原告は、昭和五〇年二月ころ今井町診療所でアレルゲン検査を受け、陰性と判定された事実を認めることができるのであるが、右に認定したくしゃみと鼻水の状況に照らせば、症例検討で指摘されたように、同原告にはアレルギーの素因又は過敏性があったものと推認するのが相当である。

また、同原告は、昭和四五年七月から本件地域に居住し、昭和四六年三月に気管支ぜん息に罹患したのであるから、大気汚染に暴露された期間が約九箇月に過ぎないこととなる。

そして、同原告は、昭和三九年七月から昭和四三年三月まで鉄道弘済会の売店で働き、年齢二五歳八箇月で気管支ぜん息に罹患したのであるが、小林の供述によれば、同原告は、二〇歳になる以前から喫煙していた事実を認めることができる。

以上のように、同原告が若いのに短期間の暴露で気管支ぜん息に罹患したことから見ると、同原告のアレルギー素因又は気道過敏性と喫煙は疾病の発症又は悪化に何らかの影響を与えたものと推認するのが相当であるが、右のような原因だけで疾病が発症したものと見るべき根拠も見出し難いのであるから、大気汚染がその発症に影響を与えたことを否定することはできないものというべきである。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

二五阿部作治

1 乙D一六一号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 気管支ぜん息である。

(二) 気管支ぜん息から肺気腫にはなかなか移行しない。

(三) 肺気腫というよりは、重症気管支ぜん息の発作の繰り返しである。

(四) 喫煙はぜん息の悪化に大きく影響した。

(五) 発症に大気汚染は関係がない。

(六) 退職したころ発症したので、心因性のものである。

2 作治は、昭和三七年ころせきが続き、今井町診療所でぜん息と診断されたのであるが、小田島光男の証言によれば、作治は、昭和三七年当時からせき、たん、ぜん鳴、息切れ、呼吸困難があり、ひどいときには坐り込んでしまうというような慢性気管支炎を思わせる症状が続いていた事実を認めることができる。

ところが、梅田博道の証言によれば、「作治の症状には寛解期があるから、ぜん息から肺気腫になるというのは極めてまれである。呼吸困難の発作の症状から見て、重症発作の重積である。小田島の証言による症状に照らしても、ぜん息と診断して良い。慢性気管支炎であれば、たんがないといけない。担当医師からぜん息と診断されている。」というのであり、梅田の証言は症例検討における考察と同じ趣旨のものである。また、梅田は、「海老のように折り曲げて、必死に苦しみに耐えている、というのは重症発作の繰り返しの症状である。肺気腫では静かにしていれば苦しくない。少しでも動くと苦しいというのが肺気腫の特徴である。」と証言している。

ところで、作治は、せきのため呼吸困難に陥って、昭和三八年初めころ(五六歳)から仕事ができなくなり、その後は夜になるとしばしばたんが喉につかえ、呼吸困難に陥っていたというのであって、作治の症状に寛解の時期があったというのは、必ずしも判然としていないものというべきである。また、作治は、昭和四八年ころから出歩くことができなくなり、寝たきりの状態になった。梅田は、昭和五二年二月当時の作治の「たんがからまって、息がつけなくなり、苦しさが増している。」という症状について、「この症状はぜん息であり、又は慢性気管支炎でぜん息様と言って良い。」と証言しているのであるが、甲D二〇四号に照らせば、必ずしも梅田の証言のように見なければならないものでもないということができる。それに、甲D一三二号によれば、「ぜん息と肺気腫との関係については、一定の見解が確立するまでに達していないのであって、一方には『ぜん息より発生した肺気腫は極めてまれである。』という調査結果があり、他方には『ある時点における肺気腫患者の臨床像からその病因を分類すると、その中には気管支ぜん息も含まれる。』とする報告があって、両者の因果関係を病因論の上から明らかにすることは難しい問題である」というのである。

したがって、作治の症状に照らせば、作治は、昭和三七年ころ気管支ぜん息又は慢性気管支炎に罹患し、昭和四七年ころから肺気腫に罹患したものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はないものというべきである。

3 阿部作治の第一回供述によれば、作治は、昭和四六年ころまで喫煙し、以前には一日に一〇本くらい喫っていた事実を認めることができる。作治は、昭和三七年という比較的早い時期に五五歳で疾病に罹患したのであるが、昭和二七年七月ころから昭和三五年ころまで千葉製鉄所の構内で配線工事に従事していたことに照らせば、発症の原因を喫煙のみに限定するのは相当でない。

また、作治は、疾病に罹患した後、間もなく仕事をやめたのであるが、疾病の発症が退職という生活環境の負的要因に基づくものであったと見るべきであるというような証拠はない。

なお、作治が書いた日誌控帳(甲D二五号)には、大気汚染状況の変化と作治の症状の変化との関係に関連して、実際に測定された汚染濃度と作治が感得した汚染状況との間に、時刻的に一致しない記載部分があるのであるが、それは寝たきりになった作治が誤って記載したに過ぎなかったものと見るのが相当である。

4 甲D一四三号の一、二によれば、作治は、肺気腫に起因して死亡するに至ったものと認めるのが相当である。

5  したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と作治の被った肺気腫及びこれによる死亡との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

二六原告平出きん

1 乙D二七八号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 心電図の表示から見て、虚血性心疾患であり、高血圧性心疾患に虚血性の病態が加わったものである。

(二) 昭和四六年の症状は気管支ぜん息らしくないし、昭和六〇年の症状も気管支ぜん息では説明がつかない。

(三) 酸素吸入は心臓発作の時に行うもので、気管支ぜん息には普通は行わない。

2 平出きんの供述によれば、同原告は、昭和四六年ころから血圧が高目になって、今でも降圧剤を服用し、これまで最も高かったときには上が一九〇で、下が一一五位あった事実を認めることができ、同原告は、昭和六〇年六月今井町診療所で心電図の検査を受け、心電図が全部下を向いていると指摘された。症例検討では、それゆえに同原告が虚血性心疾患であるというのであり、長野準の証言によれば、「一九〇位の血圧は境界領域外のもので、病的高血圧であり、相当長期間かかっていると考えるべきである。」というのである。また、平出の供述によれば、「昭和六〇年七月二六日千葉健生病院で心電図の検査を受けたが、異常があるとの連絡を受けなかった。」というのであるが、これについては、症例検討(乙D二七八号)及び長野の証言が、「虚血性心疾患はしばしば変容し、心電図の所見は元に戻る可能性がある。」としている。

しかし、右の心電図の検査は昭和六〇年六月と七月に行われたものであり、同原告の血圧が何時ころから高目のものになったのかは分からない。公害病患者の認定に際しては、心電図の検査を行うことになっているところ、同原告は、昭和四七年五月から昭和五八年一二月までの間に五回にわたって認定を受けていたのに、その間に心電図の検査を受けたとの事実を認めるに足りる証拠はない。それに、症例検討では、「血圧一九〇の状態が長引けば、心臓ぜん息の症状が出てもおかしくない。」との見解があったり、「昭和四六年から十何年間心臓ぜん息の状態が続くというのは、長いかな。」とか、「強心剤を使用しておれば、ないことはない。」という見解が示されたりしたが、考察の基礎とされた資料(例えば血圧一九〇の継続)に確実性のないものが含まれているので、症例検討による考察をそのまま信用することはできないものというほかない。また、甲D二〇四号及び長野の証言によれば、気管支ぜん息の重症発作及びぜん息重積状態の治療のためには酸素の投与が行われる事実を認めることができる。

そうすると、同原告の症状等に照らし、同原告は、昭和四六年一一月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

3 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

二七原告丹羽信

1 乙D二八〇号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 慢性気管支炎でおかしくない。

(二) 季節性があったり、転地するとせきが出なくなったりするのは、慢性気管支炎と符合しない。心因反応である。

(三) 喫煙が原因で、内因性の変化が起こったことによる。

2 同原告は、昭和四二年ころ風邪を引き易くなり、昭和四三年ころせきが止まらなくなったというのであるから、症例検討に照らしても、同原告は、昭和四三年ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告は、昭和四〇年八月から二箇月間本件地域に居住した後、越谷市に転居し、昭和四一年六月から再び本件地域に居住するようになったのであるから、同原告が慢性気管支炎に罹患するまでには短い期間しかなかったことになる。

ところで、丹羽信の供述によれば、同原告は、昭和二三年(三五歳)ころから喫煙を始め、多いときには一箱(二〇本)を二日か二日半で喫っていたが、何時のころからか量を減らして、今では一日に二本か三本を喫っている事実を認めることができ、また、同原告は、昭和二三年一一月夫丹羽公義と婚姻したのであるが、丹羽の供述によれば、公義もまた喫煙し、同原告より余計に喫っていた事実を認めることができる。

同原告には妹の原告渡辺俊があり、原告俊が慢性気管支炎及び気管支ぜん息に罹患したことは、後記三五記載のとおりであるが、原告信に更年期障害のような内因的体質的な素因があったとの事実を認めるに足りる証拠はない。

そして、右のような同原告の喫煙状況では、公義からの受動喫煙を考慮に入れても、その喫煙が疾病の発症をもたらしたと見るのは相当でないというべきである。ただ、同原告の大気汚染への暴露期間が短いものであったことに照らせば、同原告の喫煙及び受動喫煙は疾病の発症を誘発する要因の一部になっていたものと推認することができる。

甲D一二一号の一によれば、同原告は、千葉市の主催による転地療養(昭和五五年秋伊豆、昭和五六年秋伊豆、昭和五七年春千倉)に参加して、良い効果が出た上、娘の住む鳥取に長く滞在したときには、せきが出なかった事実を認めることができる。しかし、この事実をもって、同原告の発症の原因が心因性のものと見るべき根拠とすべきであるとするのは当たらないのであって、甲D二〇四号によっても、転地療養は、慢性気管支炎の日常生活の指導として勧められている事実を認めることができる。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

二八原告板倉美作子

1 乙D二七三号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 気管支拡張症か気管支ぜん息でいい。

(二) 急性気管支炎が先行した感染型ぜん息である。

(三) 普通の成人ぜん息である。

2 同原告は、昭和四八年二月と五月に千葉大病院においてファイバースコープと気管支造影による左右の肺の検査を受け、「気管支の先の方にみみず腫れのようになっているところがある。」と言われた。しかし、症例検討による考察に照らしても、右の事実から同原告が気管支拡張症に罹患したと認定するのは相当でない。

同原告は、生命保険会社に勤務していたところ、昭和三八年ころせきが出て治りにくくなり、昭和四一年一〇月ころにはひどい風邪を引いて、急性気管支炎と診断されたことがあり、昭和四三年一月ころからゼイゼイが激しくなり、せき、たん、咽頭痛を伴った。板倉美作子の供述によれば、同原告は、生命保険会社で外務員をしていたが、疾病に罹患して仕事が余りできなくなったので、昭和四四年ころから内勤の仕事に従事するようになった事実を認めることができる。

したがって、右のような事情に照らせば、同原告は、昭和四三年一月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。同原告は、昭和五〇年一月生命保険会社を退職した際、会社の医師から慢性気管支炎と診断された事実を認めることができるのであるが、その事実は前記の認定を左右するに足りないものというべきである。

3 同原告は、五四歳で疾病に罹患し、六一歳になるまで生命保険会社に勤務していたのであって、板倉の供述によれば、同原告は、二〇種類位のアレルギー検査を受けたのに、いずれも陰性であった事実を認めることができる。しかし、同原告は、昭和四八年に気管支造影等の検査を受け、「肺気腫になりかかっている。」とまで言われたのであって、これに同原告の症状を照らし合わせて見ると、同原告の症状をもって、普通の成人に良く見られる中高年発症の感染型気管支ぜん息に過ぎないと断定するのは相当でないものというべきである。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

二九原告貞宗とく

1 乙D二七四号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 慢性副鼻腔炎による気管支症候群である。

(二) 発症原因は内因性のものであり、鼻・喉が悪く、高血圧症であって、感染を受け易い。

2 乙D二七四号によれば、「副鼻腔気管支症候群」という概念があり、これは上気道疾患である慢性副鼻腔炎に、下気道疾患である非特異的な慢性の気管支の炎症が合併したものをいう、とされている事実を認めることができ、また、乙D二八〇号によれば、原告薬師寺サムの症例検討において、「慢性副鼻腔気管支症候群」という言葉が提示され、「まだ例が多くないので、仮説みたいなところがあるけれども、中高年のせき・たんの多い型に、ある時期にぜん息様の症状が起こるという症候論を説明するために、この言葉を唱えている。」とされている事実を認めることができる。これによれば、「慢性副鼻腔炎による気管支症候群」という概念も、まだ仮説的な概念にとどまっているものと推認することができるのであり、このような概念を持ち出す合理的な理由があるものとは思われない。また、貞宗とくの供述によれば、原告貞宗は、鼻が悪いと言われたことがなく、蓄膿症みたいに言われたこともなかった事実を認めることができる。

同原告は、昭和三一、二年から風邪を引き易くなり、熱が出て、せきとたんも出たのであり、そのため約一年間失業対策事業に出るのを休んだのであるが、昭和三六年ころまではいずれも風邪と診断されていたのであるから、同原告は、昭和三九年ころに至って慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

症例検討においても、同原告に「気管支の慢性炎症症状」があることを認めているのであって、右の認定を左右するに足りる証拠はない。

3 貞宗の供述によれば、同原告は、昭和三九年ころから血圧が高くなって、高いときには下が一二〇で、上が二〇〇位にまで上がった事実を認めることができるけれども、血圧の推移の状況は判明していない。

また、同原告は、昭和二七年から失対事業の人夫として働いて来たのであり、貞宗の供述によれば、同原告は、千葉製鉄所の構内において溶鉱炉のレンガ積み工事の際にレンガ運び作業に従事したほか、溶鉱炉の稼働後にその周辺でコークスを拾い集める作業に従事した事実を認めることができる。

しかし、貞宗の供述によれば、同原告は、失対事業に出て、六四歳までは月に二二日位、六五歳から六九歳までは月に二〇日位、七〇歳を過ぎてからは月に一五日位働いていた事実を認めることができるのであり、この事実に照らせば、同原告の高血圧及び失対事業での稼働状況が同原告の疾病を誘発する原因になったと見るのは相当でないものというべきである。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

三〇原告北川ヤエ

1 乙D二七三号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 気管支ぜん息であるが、成人型の感染型のぜん息である。

(二) 高血圧性の心肥大がある。

2 症例検討においても、気管支ぜん息であるとしているのであり、その症状に照らし、同原告は、昭和三九年ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 北川ヤエの供述によれば、同原告は、認定患者になった後、心電図の検査を受けて、「心臓が非常に肥大している。」と診断され、血圧も高くて、ぜん息の薬のほか、心臓と高血圧の薬を服用しており、アレルギー検査は、薬を服用しているとの理由で、受けたことがなかった事実を認めることができる。

また、同原告は、昭和五二年五月丸子町の大塩温泉で激しい発作に見舞われたのであるが、北川の供述によれば、同原告は、当時自宅で発作が起こることが多く、調子が良くなかったのであるが、夫北川龍治が温泉地での療養を楽しみにしていたので、無理をして大塩温泉に同行したところ、到着した日の夕食時のころから発作が起き始めた事実を認めることができる。

症例検討では、「ベコタイドが効いている。成人型の感染型のぜん息である。」としているのであるが、北川の供述によれば、同原告は、昭和五八年三月過ぎからベコタイドの使用を止めた事実を認めることができる。

以上のように、同原告は、心臓が肥大して血圧が高く、ベコタイドも効いていたのであるが、昭和五二年五月の激しい発作は無理な行動によって誘発されたものと推認することができるのであり、同原告が昭和三九年ころから風邪を引き易くなり、それが治りにくくなっていたことを考慮しても、同原告の疾病が細菌あるいはウイルスによって発症した感染型のものであるとするのには、その根拠が乏しいものというほかない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

三一原告薬師寺サム

1 乙D二八〇号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 主なものは気管支拡張症であり、それに感染型の気管支ぜん息が合併している。

(二) 自律神経失調症の素因がある。

2 同原告は、昭和四七年一〇月千葉大病院で気管支造影等の検査を受け、「左はビリビリと稲妻のように震えたみたいになっている。左の方が悪いので、右を下にして寝た方がよい。肺活量が少ない。」と言われた上、ひどいときには黄色いたんが出た。症例検討では、右のような事情と、同原告が労作時に息切れがすること(薬師寺サムの供述)、特に千葉大病院の医師が気管支造影の検査を行ったこと(すなわちその必要性)を重視して、気管支拡張症であると疑うことができ、それが基盤にあるとしている(乙D二八〇号)。

しかし、薬師寺の供述によれば、同原告は、季節によってくしゃみが出るとか、鼻水が出るということはなかった事実を認めることができ、同原告は、昭和三八年ころ岡沢医院で、昭和四一年ころ今井町診療所で、昭和四七年一〇月千葉大病院で、いずれも気管支ぜん息と診断されていたのであるから、あえてこれを気管支拡張症と見るべきものとするのには、その根拠が乏しいものというほかない。

したがって、その症状に照らし、同原告は、昭和三九年ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

3 甲D一八四号の一及び薬師寺の供述によれば、同原告は、自律神経失調症のように感じていたというのであるが、それは自分でそのように思っただけで、医師の診断を受けたのではなかった事実を認めることができ、同原告に自律神経失調症の素因があるとの事実を認めるに足りる証拠はない。

同原告は、昭和三五年から千葉市南町二丁目で小料理店の経営を始めたのであり、薬師寺の供述によれば、同原告は、そのころから昭和四七年一〇月まで喫煙を続け、一日に一〇本位喫っていた事実を認めることができる。

同原告が昭和三四年一〇月から本件地域に居住し、昭和三八年に疾病に罹患したことに照らせば、暴露期間が比較的短いので、喫煙はその発症に寄与したものと推認することができるのであるが、その喫煙が発症の主な原因になったとまで見ることは相当でない。もっとも、その喫煙は同原告の症状の増悪にも影響を及ぼしたものと見ることができる。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

三二原告市川二夫

1 乙D二八〇号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 気管支ぜん息である。

(二) アレルギーによるものと思われる。

(三) 溶接工と喫煙が関係して出てきた。

2 同原告は、昭和四六年夏ころからゼイゼイしたり、せき込んだりするようになり、昭和四八年秋ころから発作に苦しむようになったのであるが、その症状から見て、昭和四六年夏ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 市川二夫の供述によれば、同原告は、今井町診療所でアレルギー検査を受け、その結果は聞かされなかったが、処方された薬がその後に変更されたことがあり、インタールを使用している事実を認めることができる。しかし、市川の供述によれば、同原告は、当時発作がひどかったので、「もう少したんの良く出る薬だ。」と聞かされたにとどまっていた事実を認めることができるのであるから、処方された薬が変更されたことがあり、かつ、インタールを使用しているというだけでは、同原告にアレルギー素因があったと推認することは無理なものというほかない。

同原告は、昭和三五年五月から本件地域のA地区に居住したが、昭和三九年九月婚姻して本件地域のB地区に転居し、同年一一月から川鉄化学の下請会社に勤務して、パイプ配管、アーク溶接の仕事に従事するようになり、これを昭和四八年春ころまで継続した。乙D三一一号の一、二、同三一二号によれば、アーク溶接の作業においては、一酸化炭素、二酸化窒素及びオゾンが発生し、その濃度と暴露時間によっては生体への影響が重度のものにまで達する事実を認めることができるところ、市川の供述によれば、同原告は、溶接作業中に防塵マスクを着用していなかった事実を認めることができる。同原告は、昭和四八年春過ぎからは溶接の作業を避け、専ら配管の仕事に従事するようになった。

また、市川の供述によれば、同原告は、昭和三四年(二〇歳)ころから喫煙を始め、一時は中断したこともあったが、現在までこれを続けている事実を認めることができる。

そして<証拠>によれば、同原告は、昭和五八年から昭和六一年まで明正工業株式会社で配管職として働いていた際、肝臓に問題があると指摘された事実を認めることができる。

そうすると、同原告がアーク溶接の作業に従事していたこと、及び喫煙を継続していたことは、疾病の発症及び増悪に影響を及ぼしたものと推認するのが相当であるが、そうであるからといって、それが大気汚染による影響をすべて排斥するに足りるものであるとまで言い切るのは相当でないものというべきである。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

三三原告浅沼佐代

1 乙D二七八号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 気管支ぜん息である。

(二) 肺活量が一〇〇〇ccというのでは、重度の拘束性疾病である。

(三) 非アトピー型の中高年発生のものである。

(四) 喫煙が増悪させている。

2 同原告は、昭和三二年ころから風邪を引き易くなり、昭和三五年三月ころ夜中にせきが止まらなくなって、喉がゼイゼイし、たんがつまるようになった後、昭和三六年ころからせきとたんがひどくなり、呼吸困難になることもあった。

このような症状から見て、同原告は、昭和三五年三月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 浅沼佐代の供述によれば、同原告は、昭和四七年に市条例による認定を受ける前、千葉大病院において、レントゲン検査、心電図検査及び肺機能検査等を受け、肺活量が一〇〇〇cc位しかなかったので、「これではやっと息をしているだけだ。」と言われ、その後同病院で「これは肺気腫だ。」と言われた、というのである。しかし、浅沼の供述によれば、同原告は、昭和一四年ころから昭和一八年ころまで観世流謡曲を教えていた事実を認めることができ、昭和四八年ころまでは自分だけで謡曲を謡っていた、というのである。したがって、同原告が昭和四二年ころから坂を上がる時に息切れがするようになったことを考慮に入れても、昭和四七年に肺活量が一〇〇〇cc位であったという浅沼の供述は、たやすく信用することができない(浅沼は、謡曲は肺活量のない人にはできない、と供述していながら、昭和四八、九年までたまに謡っていた、と供述している。)。症例検討においても、肺活量が一〇〇〇ccであるというのはおかしい、と考察しているのであり、同原告に重度の拘束性疾病があるとの事実は、これを認めるに足りる証拠がないものというべきである。

同原告は、四二歳で発症したのであり、夫浅沼幸松との間に四男二女をもうけていた。そして、浅沼の供述によれば、同原告は、病弱の夫と六人の子供を抱えて苦労を重ね、非指定地域に居住していた時でも、症状が軽快しなかった事実を認めることができる。しかし、このような事情から、同原告の疾病が中高年者に発症する通常のぜん息に過ぎないと見るのは相当でないし、他に同原告の疾病がそのような通常のぜん息に過ぎないものであると認めるに足りる証拠はない。

ただ、浅沼の供述によれば、同原告は、昭和四〇年ころから、たんを切り易くするために喫煙を始めた事実を認めることができるところ、この喫煙は症状の増悪に影響を及ぼしたものと見るのが相当である。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

三四橋爪静男

1 乙D二八〇号によれば、梅田博道らは、静男の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 高齢者にありがちのせき・たん症状である。

(二) 普通の気管支炎か、風邪の症状である。

(三) 喫煙者の老人に良くある症状である。

2 静男は、昭和四四年一月(七三歳)ころからせき・たん・くしゃみが出るようになり、昭和四七年初め(七六歳)ころからせき・たん・ぜん鳴が続くようになって、同年五月ころ突然呼吸困難の状態に陥った。

甲D一七四号の二によれば、小田島光男医師は、昭和五〇年一月三一日付けの「検診書」に、「昭和四四年一月ころよりせき・たん・くしゃみが出るようになる。更に昭和四七年五月よりぜん息様の発作が加わり、ぜん鳴、呼吸困難明瞭となる。」と記載して、その病名を「慢性気管支炎」とした事実を認めることができ、甲D一七四号の一及び橋爪暉の証言によれば、静男は、昭和四七年八月ころにも小田島医師から同じような内容の「検診書」を書いてもらい、これを認定権者に提出した事実を認めることができる。ところが、静男は、昭和四七年七月一七日付けをもって市条例により「気管支ぜん息」の患者であると認定された。

静男は、昭和三八年のうちに一切の職を退き、昭和五〇年一月ころには症状が軽快していたところ、橋爪の証言によれば、静男の長男の原告橋爪暉は、静男から病名を聞いたことはなかったが、風邪ではなかったかなと思われるというのであり、同証言によれば、静男は、同年九月肺炎の治療を終えて退院した後は、風邪を引かないように気を配っていた事実を認めることができる。

また、橋爪の証言によれば、静男は、戦争中から昭和五〇年(八〇歳)の後まで喫煙していた事実を認めることができる。

更に、静男は、昭和四九年一一月三〇日付けをもって公健法により「気管支ぜん息級外」と認定され、級外の認定はそのまま続いていた。

3 したがって、以上のような事情に照らせば、静男の疾病については様々な見方ができるのであり、小田島医師が再度にわたって、「慢性気管支炎」と診断したのに、市条例及び公健法においてこれをいずれも「気管支ぜん息」と認定した理由にも判然としないところがある。乙D二八〇号及び長野準の証言によれば、症例検討においては、昭和四七年初めころからの症状についてこれをぜん息と診断してもおかしくない、との見解が示された事実を認めることができるところ、長野の証言によれば、「これはぜん息ではなくて、気管支炎の反復であり、それで昭和五〇年に軽快した。」というのである。

しかし、静男は、昭和四四年一月ころまで健康に異常がなかったところ、そのころからせきなどが出るようになり、昭和四七年初めころからぜん鳴が続くようになって、その症状はぜん息と診断してもおかしくなかったというのであるから、その症状が軽度のものであったとしても、静男は、昭和四七年初めころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

4 静男は、七六歳で疾病に罹患し、戦争中から喫煙を続けていたのであるから、加齢による肺機能の低下と喫煙による影響が疾病の発症を促し、又はこれを増悪させたものと推認することができる。しかし、静男がその後においても町内会の会長を勤め、八〇歳を過ぎても喫煙を続けていた(橋爪の証言)上、九〇歳まで生存していたことに照らせば、静男が加齢による生理的変化によって疾病に罹患したと見るのは相当でないものというべきである。

5 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と静男の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

三五原告渡辺俊

1 乙D二八〇号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) ぜん息である。

(二) アレルギーがある。ペット(猫)がアレルゲンである。

(三) 二男が気管支ぜん息(ハウスダスト・アレルギー)であり、遺伝的素因が原因である。

2 同原告は、昭和四二、三年ころから風邪を引き易くなり、せきとたんが出て、呼吸困難を伴うようになった。昭和四五年ころからは季節に関係なくせきとたんが出て、呼吸困難に陥った。昭和四七年一月風邪を引いて、気管支炎を併発し、治療を受けたが、同年五月呼吸困難となり、意識がもうろうとなった。

乙D二五九号によれば、渡辺内科医院の医師渡辺國太郎は、昭和四七年五月二四日付けの「検診書」に、「本年二月初旬より咳嗽あり」と記載して、その病名を「慢性気管支炎」とした事実を認めることができ、同原告は、同月一九日付けをもって、市条例により慢性気管支炎の患者と認定された。

同原告は、昭和五〇年一月ころせき、たん、呼吸困難等の症状が続いていた。小田島光男医師は、昭和五〇年一月二二日付けの「検診書」に、「現在でも咽頭痛、たん、ぜん鳴、胸部圧迫感、呼吸困難等の諸症状が持続しており」と記載して、その病名を「慢性気管支炎」とした事実を認めることができるところ、同原告は、昭和四九年一一月三〇日付けをもって、公健法により気管支ぜん息の患者と認定された。

渡辺俊の供述によれば、同原告は、認定が慢性気管支炎から気管支ぜん息に変わったことについて、小田島医師から説明を受けたが、その変更に伴って治療方法が特に変わったことはなかった事実を認めることができる。

以上のような経緯に照らせば、同原告は、昭和四二、三年ころ慢性気管支炎に罹患し、昭和四九年一一月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 <証拠>によれば、同原告の二男隆(昭和三二年五月三一日生まれ)は、昭和四二年春学校検診において、「右下肺野に陰影の増強がある。」と言われ、同年六月二日千葉市椿森四丁目所在の国立千葉病院で診察を受け、同月一四日から同年七月八日まで入院し、同年一一月一三日まで通院して治療を受けたが、入院当初肺炎とされたものの、後に気管支ぜん息と診断され、アレルゲン皮内反応でハウスダストと羊毛に陽性を示した事実を認めることができ、同原告の姉原告丹羽信が慢性気管支炎に罹患したことは、前記二七に記載したとおりである。

また、渡辺の供述によれば、原告渡辺は、昭和四〇年七月千葉市南町三丁目に転居した後から猫を一匹飼うようになり、また、今井町診療所に入院した際、ハウスダストと猫の毛などのアレルギー検査を受けて、いずれも陽性の反応が出なかった事実を認めることができる。

ところで、同原告は、昭和四〇年七月から本件地域に居住し、昭和四二、三年に疾病に罹患したのであるから、大気汚染に対する暴露期間が短かったばかりでなく、三八、九歳で罹患したことになる。また、そのころに二男隆と姉原告丹羽が各疾病に罹患したことに照らせば、原告渡辺には体質的に遺伝的な素因があったものと推認するのが相当である。

しかし、原告渡辺にはアレルギー検査による陽性反応が認められなかったのであり、右のような遺伝的な素因があったことと、同原告が猫を飼っていたことを合わせて考慮したとしても、それらの素因が唯一の、又は主な原因となって、同原告の疾病が発症するに至ったものと見るのは相当でない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎及び気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

三六大島花

1 乙D一六一号、同二八〇号によれば、梅田博道らは、花の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 昭和四六年に発症したとすれば、そのころから肺癌である。

(二) 昭和三五年に発症したとすれば、昭和四六年までの症状は慢性気管支炎である。昭和四六年から癌になった。

その原因はいずれも喫煙である。

ぜん息ではない。

(三) 昭和四六年からぜん息が発症し、又は昭和三五年から軽い慢性気管支炎が発症したとしても、肺性心にはならない。

肺癌でも、肺性心を起こすと、昭和五〇年まで持たない。

2 新沼八重子の供述によれば、「同原告は、昭和一七年四月一一日花の長女として出生し、昭和三三年三月蘇我中学校を卒業して、セーコー社の鎌ヶ谷工場に勤務したが、昭和三五年五月ころ同社を退職して、同年九月から今井町診療所に勤務し、事務の仕事を担当していた。花は、そのころからせきとたんが出るようになったが、病院に行くことを嫌がり、せき止めの薬を買って飲んでいた。同原告は、昭和四〇年一二月新沼正四郎と婚姻して退職し、大船渡市に転居したが、その後も時々千葉市の花の下を訪れた。同原告は、昭和四〇年までの花の症状について、風邪とは思わず、ぜん息までひどくはないと思っていた。花は、昭和四六年一二月急性肺炎になり、初めて医師の診察を受けたが、そのころはせき込みが以前よりも激しくなっていた。花は、そのころから二〇日位平和湯の勤めを休んだ。」事実を認めることができる。

また、<証拠>によれば、花には昭和四七年一一月ころから浮腫が出現したので、小田島医師は、「閉塞性肺疾患に付随してくる浮腫は、ひどくなると肺性心からきたものといわれている。」ところから、肺性心が合併したと診断した事実を認めることができる。

梅田博道の証言によれば、梅田は「肺性心は慢性肺気腫だとか、慢性気管支炎からなるのが多い。」と言っていたし、思っていたが、近ごろの傾向では肺癌による肺性心が多く、医師は、診断書に「肺性心」とは書くけれども、「肺癌」とは書きにくい、というのである。

それに、長野準の証言によれば、肺性心は、慢性の呼吸器疾患が長期にあって、そのために心臓に負担がきて、心室が肥大し、心不全を起こす状態であり、肺性心になるのには、症状により異なるけれでも、三年から一〇年かかる、というのである。

3 甲D三五号の五によれば、小田島医師は、昭和五〇年二月三日付けの「検診書」に、その病名を「慢性気管支炎」としたほか、続発症として「肺性心、肺癌」と記載した事実を認めることができ、小田島の証言によれば、花は、慢性気管支炎があるところに肺癌が合併したために、両方の症状を強め、死期を早めた、というのである。

梅田の証言によっても、花が喫煙していたとすれば、喫煙によって慢性気管支炎と肺癌とが起こったと考えられる、というのであり、新沼の供述によれば、花は、始期は分からないが、昭和四九年七月まで喫煙していた事実を認めることができる。

花は、昭和四七年七月及び昭和四九年一一月にいずれも気管支ぜん息の患者と認定されたのであるが、これを裏付ける証拠はない。梅田は、「昭和四七年七月にぜん息の診断を付けられたことについて、主治医に反対する根拠はない。」と証言しているが、ぜん息の診断を支持しているわけではない。小田島も、花がぜん息であったとは、証言していない。

したがって、以上のような事情を総合して、花は、昭和三五年ころ慢性気管支炎に罹患し、その後肺癌に罹患して、その合併症を患ったと認めるのが相当であり、肺癌の発症の時期については、これを遅くとも昭和四八年ころと認めるのが相当である。

4 小田島医師は、検診書に「続発性肺癌」と記載し、新沼の供述によれば、同原告は、花が放医研病院から退院するときに、同病院の医師から、「癌が併発したのは、大気汚染が関係あると思う。」という趣旨の言葉を聞いた、というのであるが、二回にわたる症例検討の考察、梅田及び長野の各証言に照らしても、花の肺癌が本件地域における大気汚染によって発症したとか、慢性気管支炎の続発症として発症したと認めるのは相当でない。

また、花が昭和三五年ころ疾病に罹患したことについては、その暴露期間等に照らして、花の喫煙が発症に影響を及ぼしたものと推認するのが相当であるが、その喫煙による影響が大気汚染による影響を無視してよいほどまでに大きいものであったと見るのは相当でない。

5 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と花の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

三七原告秋山雅史

1 乙D二七六号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 普通の小児期の気管支ぜん息である。

(二) 原因はハウスダスト・アレルギーである。あるいは猫を飼っていたことによるのかも知れない。

(三) 咽頭炎又は扁桃炎が合併している。

2 症例検討に照らしても、同原告は、気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

発症の時期について考察するに、同原告は、昭和四六年春ころから風邪を引き易くなり、熱が出たり、喉が締めつけられるようなせきをするようになって、同年九月ころ激しくせき込み、喉を赤くはらして、喉頭炎かも知れないと診断された。症例検討においても、「四六年、四七年の症状は咽頭炎か扁桃炎である。」との見解が示された。しかし、症例検討によれば、「主要なものはぜん息である。」というのであって、同原告は、喉が締めつけられるようなせきをするようになった後、激しくせき込んだというのであるから、その発症の時期は昭和四六年中であったと認めるのが相当である。

3 同原告は、昭和四五年一一月千葉市千城台北町に転居し、非指定地域において罹患したことになる。しかし、同原告は、昭和四八年四月本件地域に転居し、その後間もなくのころから症状が悪化して、同年八月ころまでの間に気管支ぜん息と診断された。

4 同原告は、ハウスダスト・アレルギーであり、減感作療法を受けて、インタールを昭和五六年三月ころまで使用した。秋山秀子の供述によれば、同原告は、減感作療法を受けたり、受けなかったりしていたが、中学校に入ってからは、これを受けなくなった事実を認めることができる。

同原告は、小学校四年生から六年生までの症状が最も重く、中学校二年生から次第に良くなって、高校生になった後はほとんど通院をしなくなった。秋山の供述によれば、同原告は、クラブ活動として、中学校の三年間卓球をやり、高校の二年間サッカーをやっていた事実を認めることができる。同原告は、中学校二年生(昭和五六年)の一二月から「級外」と認定された。

また、秋山の供述によれば、同原告が動物好きであったので、母親が昭和四八年ころ暫くの間猫を飼ってやった事実を認めることができる。

5 してみれば、同原告の疾病は、ハウスダストをアレルゲンとした小児期特有の気管支ぜん息に過ぎないものと見ることができないわけでもない。

しかし、同原告は、昭和四六年ころには医師から喉頭炎かも知れないとして治療を受けていたのであり、本件地域に転居して間もなくのころからひどいせきが出て、たんがからまり、ゼイゼイ・ヒューヒューと鳴って、呼吸が苦しくなってきたのであるから、本件地域における大気汚染は疾病の増悪に影響を及ぼしたものと推認するのが相当である。

また、同原告は、昭和五二年一一月一九日付けで公健法による認定患者となったのであるが、秋山の供述によれば、それは、同原告に認定患者の名を付けたくなかったという親心によるものであった事実を認めることができる。

6 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息の増悪との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

三八原告井形亜矢子

1 乙D二七四号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 典型的なアレルギーぜん息である。

(二) 原因はハウスダストである。

(三) 喫煙と生活環境が症状を増悪させた。

2 症例検討に照らしても、同原告は、昭和四三年秋ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告は、昭和四三年秋ころ発症し、千葉大病院で検査を受けて、ハウスダスト・アレルギーであると診断され、減感作療法を受けるようになった。昭和四七年四月小学校に入学したが、昭和四八、九年には症状が悪化して、今井町診療所に通院する日数も多くなったので、昭和五〇年四月から三年間下志津病院に入院し、治療を受けながら小学校の課程を修了した。その間に体力を回復し、遠泳や剣道もできるようになって、発作も少なくなったので、昭和五三年四月から地元の中学校に通学するようになったところ、同年七月から発作が起き、夏休み中に約一〇日間千葉健生病院に入院して治療を受けた。昭和五四年八月に約一箇月間筑後市に滞在した際には発作も少なく、体調が良かった。

井形千津子の供述によれば、同原告は、中学校一年生から剣道部に入ってクラブ活動を続け、下志津病院の剣道の先生が勤務していた県立若松高等学校へ進学することを希望したが、これを果たせなかったため、私立千葉工商高等学校へ進学した事実を認めることができる。同原告は、千葉工商を中退したところ、井形の供述によれば、同原告は、昭和五八年ころから約二年間スナックで働き、父母と妹が大宮団地に転居したのに、「好きなことをやらせて。」と言って、独りで白旗二丁目の県営住宅に住み、飲食店で働いている事実を認めることができる。

また、井形の供述によれば、同原告の父は、築炉関係の仕事に従事して、一日に二〇本位喫煙し、同原告も勤務先などで喫煙している事実を認めることができる。

4 そうすると、同原告の疾病の発症については、ハウスダスト・アレルギーが少なくない影響を及ぼしたものと推認することができ、症状の増悪については、自らの喫煙及び父からの受動喫煙による影響も受けたものと推認することができる。

しかし、同原告が昭和四三年秋(三歳)に疾病に罹患し、減感作療法を受けながらも症状が悪化して、昭和五〇年から下志津病院に入院し、三年間の療養生活で発作も少なくなったのに、昭和五三年夏に発作が治まらず、約一〇日間入院して治療を受けた経緯に照らせば、これに対する大気汚染の影響も無視することはできないものというべきである。

5 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

三九原告石渡鶴

1 乙D二七六号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 昭和二七、八年に発症したとすれば、気管支ぜん息である。

(二) 中高年発症の普通の感染性ぜん息である。

2 症例検討に照らしても、同原告は、気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

発症の時期について、同原告は、訴状において「昭和三〇年一月ころ発病」と記載し、陳述書(甲D一五六号の一)において「昭和三〇年ころから風邪を引き易くなり、昭和三五年一月ころからせきやたんがひどくなって、ぜん息の発作が起きるようになった。」と記載したが、本人尋問においては、「柏木医院に通院した時期及び今井町診療所に通院を始めた時期は、いずれも良く記憶していない。」と供述し、発症の時期を良く覚えていないと供述している。しかし、陳述書、検診書(甲D一五六号の二)及び石渡鶴の供述を総合すると、同原告の疾病は昭和三五年一月ころ発症したと認めるのが相当である。

3 同原告は、昭和四五、六年ころから病状が悪化して、発作が頻発し、昭和四六年一〇月には一晩だけ今井町診療所に入院したのであるが、昭和五〇年四月に至って公健法による認定患者になった。石渡の供述によれば、同原告は、昭和五〇年四月ころ小田島光男医師から、「公健法による認定制度があるから、その申請をした方がいい。」と勧められて、初めてその制度を知ったのであり、市条例による救済制度が施行されていたことを知らなかった、というのである。しかし、そうであったとしても、小田島医師は、同原告を診察し続けながら、同原告に対しては、市条例による救済を受けることを勧めなかったこととなり、同原告の症状は、市条例による救済を必要とするまでに至っていなかったものと推認することができる。

したがって、同原告が昭和三五年一月(四九歳)ころ疾病に罹患し、同年から昭和四三年まで洋品店を経営していたことに照らせば、同原告の疾病の発症は、中高年者に特有のものであったと見ることができないわけでもない。

しかし、石渡の供述によれば、同原告は、今井町診療所におけるアレルギー検査で陰性と判定された事実を認めることができ、症例検討が、同原告の発症の時期を昭和二七、八年として考察していることに照らせば、症例検討における考察をそのまま採用するのは相当でないものというほかなく、大気汚染による影響を無視しても良いとまで断定するのは相当でない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

四〇原告伊藤一男

1 乙D二七七号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 慢性気管支炎から肺気腫の流れを示している。

(二) 続発性の肺性心である。

(三) 職歴と喫煙が原因である。

2 症例検討に照らしても、同原告は、昭和四〇年ころ慢性気管支炎に罹患し、昭和五二年一一月ころこれと肺気腫に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告は、昭和一三年秋から二年間陸軍蹄鉄工務兵となり、プレス工を経て、昭和二二年ころから昭和四六年ころまで道路補修工事等の失業対策事業に従事し、同年から昭和五一年まで土木会社に勤務した後、昭和五二年から約一年間休暇センターで清掃の仕事に従事した。

また、伊藤一男の供述によれば、同原告は、昭和一五年秋ころから喫煙を始め、昭和六一年三月より一〇年以上前まで喫煙を続けていた事実を認めることができる。

したがって、同原告は、道路補修工事等に従事しながら随時じんあいを吸入し、かつ、喫煙を継続していたのであるから、このような職場環境と喫煙は同原告の疾病の発症に影響を及ぼしたものと推認することができる。しかし、道路補修工事等によって吸入したじんあいの程度及び喫煙の程度は、いずれも明らかでないのであるから、これらによって疾病が発症したものとまで認めるのは行き過ぎである。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎及び肺気腫との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

四一原告大井一郎

1 乙D二七五号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 症状の説明は慢性気管支炎らしくない。

(二) 軽い副鼻腔気管支拡張症か何かである。

(三) 心因反応で発作様の症状が出ている。

(四) 交通事故による精神症状が大きい。

(五) 喫煙によるせき・たんである。

2 同原告は、終戦後直ちに復員して、魚行商に従事し、昭和四〇年交通事故により頭部等に受傷して、約二〇日間入院し、昭和四四年ころ魚行商を止めて、その後は自宅にとどまり、専ら家事に従事していた。同原告は、昭和四五年四月ころからせきとたんが出るようになり、昭和四七年ころには夜にせきとたんが出て、息苦しくなったが、同年には公害病症状申請のための集団健康診断を受けず、ほとんど市販の薬を服用して、昭和五一年までの間に矢沢医院に一、二回通院して診療を受けたに過ぎなかった。

また、昭和五一年一二月二日付け医師小田島光男作成の検診書(甲D一四二号の二)には、「四、五年前からせき、たん、咽頭痛、鼻閉、動悸、息切れ等が持続しており、年とともに前記症状が次第に増強してきたと言う。」と記載されているにとどまり、その症状は同原告の訴えをそのまま記載したに過ぎないものと認めることができる。しかも、同原告は、昭和四七年ころせきとたんが出て、息苦しくなったことがあったのに、集団検診を受けず、昭和四五年四月から昭和五一年までの間に矢沢医院に一、二回通院したに過ぎなかったのであるから、検診書における症状の記載は、同原告の症状を的確に記述したものではないと認めるのが相当である。

したがって、前記のような同原告の症状から、同原告が昭和四五年四月ころ慢性気管支炎に罹患したものと認めるのは相当でなく、他に右の事実を認めるに足りる証拠はない。

3 しかし、同原告は、昭和五一年一二月八日から公健法による慢性気管支炎三級の患者に認定されたのであり、甲D一四二号の二及び大井一郎の供述によれば、同原告は、その際小田島医師作成の前記検診書を提出した上、所定の検査等を受けて、慢性気管支炎の認定を受け、昭和五九年一二月にも同じように慢性気管支炎三級の認定を受けた事実を認めることができる。

したがって、右の検診書だけではその根拠が不明であるけれども、所定の検査等を経たことを考慮すれば、同原告は、昭和五一年一二月ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

4 大井の供述によれば、同原告は、魚の行商を止めるころまで喫煙を継続し、その後は禁煙に努めたけれども、昭和五八年又は昭和五九年の一二月に認定患者を対象として行われた市公害衛生課主催の禁煙指導会に出席して講演を聞き、意見を述べた事実を認めることができる。

また、<証拠>によれば、同原告は、昭和五六年秋まで千葉市寒川町三丁目九七番地に居住したが、その場所は国道一六号線と千葉街道に挟まれた所で、千葉街道に面し、自動車の排出ガス、騒音、振動による影響を受ける所であった事実を認めることができる。

同原告は、昭和四〇年交通事故に遭ったが、大井の供述によれば、同原告は、加害者を知ることができなかったため、損害賠償の支払を受けることができなかった事実を認めることができるところ、同原告は、「交通事故による後遺障害を受けなかった。」と供述している。更に、甲D一四二号の一及び大井の供述によれば、同原告は、千葉製鉄所の担当社員に対し、その操業等に関連して、数多くの抗議をしたり、苦情を申し入れたりした事実を認めることができる。

しかし、同原告の疾病が交通事故による精神症状又は心因反応によって発症したものと認めるべき根拠を見出すことはできない。また、同原告の喫煙及び自動車の排出ガスは、疾病の発症に影響を及ぼしたものと認めるのが相当であるが、そうであるからといって、大気汚染による影響を無視することは相当でないものというべきである。

5 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

四二原告片桐民平

1 乙D二七九号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 慢性気管支炎であり、ぜん息ではない。

(二) 喫煙が原因である。

(三) 一級には該当しない。

2 同原告は、昭和三四年ころからせきが出るようになり、せきが止まらず、息を吸うのに苦しみ、普段でもゼイゼイし、身体を動かしたりするとせきが出て、毎朝たんが切れなかった。したがって、このころ(六〇歳)を発症の時期と認めるのが相当である。

3 症例検討(乙D二七九号)においては、「ぜん息発作の場合、坐っているときだけに起きるということはない。たんがつまれば、息を出すのも吸うのも苦しくなる。ぜん息だと、感染を伴わない限り熱は出ない。検診書の記載内容は、ぜん息の表現ではなく、閉塞性気管支炎の表現であり、慢性気管支炎の症状の方が近い。ぜん息の呼吸困難の際にはうずくまってしまうものであり、発作の時に足をばたばたさせることはない。声を出そうとする瞬間などに直ぐせきが出るというのは、慢性気管支炎である。たん持ちである。六〇歳の発症である。」ことなどから、同原告の症状は慢性気管支炎のそれであって、ぜん息のそれではないとしている。

ところで、甲D一五八号の二は、昭和五〇年一月九日付け医師鷲見正人作成の検診書であるが、市条例による公害病認定の際にどのような検診書又は診断書が提出されたのかは不明であり、鷲見医師は、右の検診書に「一〇年前から呼吸困難、咳嗽、喀たん、ぜん鳴を認め、現在まで同様症状で、治ゆに傾向に無い。」と記載し、その病名を「気管支ぜん息」と診断した。

また、池田礼子の証言によれば、同原告の発作というのは「せきをしている状態」をいうものであって、一番ひどいときの症状は「せきが出て、熱が出て、肺炎のような状態」になっていた事実を認めることができる。

したがって、同原告の症状については、これを慢性気管支炎と診断すべきであるとする見解にも合理性があるものというべきであり、同原告の妻である原告片桐みつ子は、後記四三に記載したとおり、市条例によって慢性気管支炎の患者と認定されている。すなわち、慢性気管支炎と気管支ぜん息の症状をせつ然と区別することは困難であるが、昭和三四年発症の疾病についてはこれを慢性気管支炎であったと認めるのが相当である。

4 原告民平は、昭和四六、七年に発作が起きて呼吸困難となり、柏戸病院に約一〇日間入院したほか、鷲見病院に二、三回入院して治療を受け、昭和四九年一一月から公健法により気管支ぜん息の患者と認定された。

これについては、鷲見医師が約二年間同原告の診療に当たっていたのであるから、検診書の記載内容が簡略なものであっても、その診断を尊重するのが相当である。

したがって、同原告は、昭和四九年一一月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

5 池田の証言によれば、同原告は、昭和五一年ころまで喫煙を続けていた事実を認めることができる。池田の証言だけでは、同原告の喫煙の期間及び量を的確に認定することができないのであるが、その期間から見て、その喫煙は疾病の発症及び増悪に影響を及ぼしたものと推認することができる。しかし、その期間及び量が明らかでないことによっても、疾病の発症に影響を与えた大気汚染を無視することは相当でない。

6 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎及び気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

四三原告片桐みつ子

1 乙D二七九号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 気管支ぜん息であるとすると、このような症状ではなく、いずれにせよ軽症なものである。

(二) 敢えて言えば、夫の喫煙で、夫と同じような症状になった。

2 同原告は、昭和三五、六年ころからせきとたんが出て、ゼイゼイするようになったのであり、同原告は、そのころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。同原告は、昭和三九年ころから家政婦の仕事をするようになったが、甲D一五八号の一及び池田礼子の証言によれば、それは、夫が既に星野鉄工所を退職していたので、生計を支えるためにその仕事をするようになったのであり、そのころに症状が軽快していたというのではなかった事実を認めることができる。

3 同原告は、昭和四八年ころから鷲見病院に通院するようになったのであり、同原告に対する検診書(甲D一五八号の三)及び公健法による公害病の認定に照らせば、同原告は、昭和四九年一一月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

4 同原告は、昭和五四年(六九歳)ころ老人性痴呆症に罹患したところ、池田の証言によれば、その時点では痴呆症の症状がかなり進行していた、というのであるが、それより以前に現れた症状のうちどれが痴呆症によるものであったのかを識別するに足りる証拠はない。

なお、老人性痴呆症は本件疾病と関連性のないものであり、それが大気汚染によって発症したとの事実を認めるに足りる証拠もない。

5 前記四二に記載したとおり、同原告の夫は喫煙を続けていたのであるが、同原告が夫の受動喫煙の影響を受けたとの事実を認めるに足りる証拠はない。

6 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎及び気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

四四原告西藤陽一

1 乙D二七九号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 典型的な気管支ぜん息である。

(二) アトピー型であり、ハウスダストが主な原因の一つである。ペットも問題である。

2 同原告は、昭和四一年九月(一歳)過ぎから鼻水とせきが出て、熱が出るようになり、その二、三箇月後からぜん鳴を伴うようになったのであるから、そのころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告は、昭和四一年九月過ぎから岡沢小児科医院に、昭和四七年ころから松石内科医院に、昭和五〇年二月過ぎころから今井町診療所にそれぞれ通院して治療を受けたが、いずれの医師からもハウスダスト・アレルギーであると診断され、今井町診療所で減感作療法を受けた。

また西藤義枝の証言によれば、同原告の家では、昭和五二年(小学校六年生)から猫一匹を飼い続けてきた事実を認めることができる。

4 同原告は、昭和四二年と四三年に発作がひどくなり、小学校に入学しても、六年間の夏休みに一週間位ずつ入院して治療を受けたが、小学校の高学年になるにつれて、少しずつ良くなり、中学校に入学してからは発作が少なくなって、昭和五五年一一月(一五歳)に発作のため呼吸困難に陥ったほかは、夏に身体を冷やしたときに発作が起きる程度となり、高校に入学した後は発作も起きず、昭和五九年四月(一八歳)に就職した。

また、証拠によれば、「同原告は、小学校を卒業して、減感作療法を止めたが、それは、それが引き金になって、発作が出ることがあったからである。小学生のころ毎年お盆になると、母の生家の館山に行って一週間位滞在したが、毎年二日目位に発作が起きて、その都度近くの病院に行き、治療を受けた。」事実を認めることができる。

それに、<証拠>によれば、同原告には昭和四三年三月二六日生まれと昭和四五年七月九日生まれの弟二人があるが、弟二人は、いずれも健康状態が良好で、ぜん息に罹患したことがなかった事実を認めることができる。

5 してみれば、同原告の気管支ぜん息の発症については、同原告のハウスダスト・アレルギーがかなりの程度で影響を及ぼしたものと推認するのが相当である。

しかし、同原告が一歳で疾病に罹患し、中学校を卒業するまで入院を要するほどの発作に見舞われていたことに照らせば、大気汚染による影響を見逃すことは相当でない。

6 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

四五原告鈴木いさ

1 乙D二七九号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 気管支ぜん息である。

(二) アレルギー性鼻炎が合併している。

(三) ぜん息もアレルギーによる。

2 同原告は、昭和四三年ころから喉が痛くなったところ、その後せきとたんなどが出て苦しくなり、昭和四五年ころから高橋病院に通院したのであって、鈴木いさの供述によれば、同原告は、高橋病院でぜん息と言われた事実を認めることができる。

したがって、昭和四五年ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 <証拠>によれば、同原告は、発作(胸がゼイゼイし、喉がヒューヒューいうこと)が起きると、せきとたんのほか、涙と鼻汁が出ていた事実を認めることができ、これによれば、同原告にはアレルギー性の素因があったのではないかと推認することができないわけでもないが、鈴木の供述によれば、同原告は、これまでアレルギー検査を受けたことがなかった、というのであり、他にアレルギーを裏付けるに足りる証拠もないのであるから、涙と鼻汁の症状のみをもってアレルギーが発症の原因をなしたものと認めるのは相当でない。

また、同原告は、昭和二一年三月から本件地域のB地区に居住し、五五歳又は五六歳で発症して、昭和五〇年(六一歳)ころ症状が最もひどくなっていた。それに、鈴木の供述によれば、同原告は、高橋病院と杉本医院において、いずれもぜん息に関連する検査を受けたことがなく、昭和四七、八年ころの千葉市の集団健康診断も受けなかった事実を認めることができる。これによれば、同原告の症状については、格別の検査を必要とするまでもなく、診断と治療ができるような症状であったものと推認することができるのであるが、だからといって、それが中高年発症のぜん息に当たるものと見るべきであるとするのは相当でなく、それは、同原告の症状が検査を必要とするまでに至らない軽度のものにとどまっていたことによるものであったと見るのが相当である。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

四六原告角田スミ江

1 乙D二七八号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 慢性気管支炎である。

(二) 原因は喫煙である。

(三) 低血圧症候群の症状で発症している。

2 同原告は、昭和三五年ころから風邪を引き易くなって、今井町診療所に通院するようになり、昭和四〇年ころにはせきがひどくなった。これによれば、同原告は、昭和三五年ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

3 角田スミ江の供述によれば、同原告は、三〇歳(昭和二一年)になる前から喫煙を始めて、昭和五六年初めころまでこれを続け、多いときには一箱(二〇本入り)を二日余りで喫っていたのであり、その夫も喫煙を続けていた事実を認めることができる。

また、同原告は、早くから今井町診療所で診療を受け、昭和四七、八年には耳鼻科(吉井医院)の治療も受けたのであるが、昭和四九年初めころせきとたんが長く続いたことなどから、同年中に千葉市の集団健康診断を受け、同年四月一五日から市条例により慢性気管支炎の患者と認定された。

以上の事実によれば、同原告の症状は、小田島光男医師が公害病認定の申請を勧めるまでに至らなかった程度の軽い症状であって、そのような疾病の発症の原因としては、同原告の喫煙が少なくない影響を及ぼしたものと推認することができる。しかし、同原告が昭和一九年九月から本件地域に居住していたことに照らせば、発症の原因として大気汚染の影響を無視することは相当でない。

同原告は、四四歳で発症したのであり、角田の供述によれば、同原告は、血圧が低く、かつて糖尿病の気があると言われた事実を認めることができるのであるが、このような事実も大気汚染による影響を排斥する事由には当たらないものというべきである。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

四七原告露崎留吉

1 乙D二七五号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 慢性気管支炎であるが、軽症である。

(二) 原因は喫煙である。

2 同原告は、昭和四五年ころから冬になるとせきとたんが出て、白旗診療所に通院し、昭和五〇年ころから症状が悪化して、今井町診療所に通院するようになり、昭和五一年から昭和五三年ころまでが最も症状がひどかった。

しかし、同原告は、最も症状がひどかった時期においても、勤務を休まなかったのであり、<証拠>によれば、同原告は、昭和四二年二月八日東亜外業株式会社千葉事業所に入社し、昭和五二年九月一五日同社を停年で退職したが、その間に同社で行われた毎年の定期健康診断においていずれも異常なしと診断されていたばかりでなく、病気のために欠勤したことはなかったのであって、しかも、昭和五〇年一月分三四時間、二月分四三時間の各超過勤務をしていた事実を認めることができ、同原告は、その後明正工業に勤務した後、昭和五三年から千葉市作草部町の自動車修理工場に勤務して、白旗一丁目の自宅から自転車で通勤している。

また、<証拠>によれば、同原告は、白旗診療所においては「単なる風邪である」と診断され、今井町診療所においても当初は「気管支炎」と診断されていたのであって、昭和五一年五月に至って初めて「慢性気管支炎」と診断された事実を認めることができる。

したがって、同原告の症状は、最もひどかった時期においても軽い程度のものであったと認めるのが相当であるが、症例検討における考察に照らしても、同原告は、昭和五一年五月ころに至って慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

3 露崎の供述によれば、同原告は、昭和五〇年ころまで喫煙を継続し、そのころ医師から止めた方が良いと言われて、これを止めた事実を認めることができる。

これによれば、同原告は、喫煙を止めた後に慢性気管支炎と診断されたことになるが、その喫煙歴は長期に亘るものであったと推認することができる(露崎の供述による。)のであるから、同原告の喫煙は疾病の発症を促したものと推認することができる。しかし、同原告は、千葉製鉄所の構内に所在した東亜外業に一〇年余りの間勤務していたのであるから、発症に至るまでの間における大気汚染の影響を考慮すべきでないとするのは相当でない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

四八原告富塚忠幸

1 乙D二七八号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 普通の気管支ぜん息である。

(二) ハウスダスト・アレルギーが原因である。

(三) 父の喫煙とペットが良くない。

2 同原告は、昭和四九年秋ころからせきをするようになり、今井町診療所で診療を受けるようになったのであるから、同原告は、そのころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告は、昭和五〇年秋千葉大病院でアレルギー検査を受け、ハウスダストが陽性であったので、その後今井町診療所で減感作療法を受けるようになったが、富塚カズエの供述によれば、減感作療法の効果が少しずつ現れていた事実を認めることができる。

また、富塚の供述によれば、同原告の父は、千葉市のバス会社に勤務し、喫煙していたが、同原告が公害病患者に認定されたことに伴い、医師などから忠告を受けて、昭和五二年一一月ころから喫煙を止め、かつて飼っていたインコも飼うのを止めた事実を認めることができる。

そして、同原告は、小学校三年生から五年生までの間が最も症状がひどかったが、四年生から青空教室等に参加し、中学校に入学した後は発作が少なくなって、高校入学後はサッカーをできるようになった。

したがって、同原告は、気管支ぜん息の発症について、同原告のアレルギー素因及び父からの受動喫煙による影響を受けたものと推認することができるばかりでなく、同原告の症状は、それが成長とともに軽快していると認めることができることから、小児期発症の普通のぜん息に過ぎないものであったと見ることができないわけでもない。

しかし、同原告は、昭和四九年二月本件地域に転入して、その年の秋に発症するに至ったのであるから、本件地域における大気汚染の影響を看過するのは相当でない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

四九原告中島澄行

1 乙D二七九号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 慢性気管支炎であるが、極く軽いものである。

(二) 自動車の排出ガスが原因である。

(三) 喫煙によるものと推測することができる。

2 同原告は、昭和四〇年ころから風邪を引き易くなり、そのころから約一〇年間岡沢医院に通院して診療を受けたが、いつも風邪と診断されたにとどまり、昭和五〇年から今井町診療所に通院して、慢性気管支炎と診断されるに至ったものの、同診療所からは「うがい薬とせき止めの薬」をもらっていたに過ぎなかった。

3 ところで、同原告は、自分自身の症状の発症の時期及び最も症状が悪化した時期について、次のように様々な記載及び供述をしている。

(一) 昭和五三年四月一七日付けの訴状において、「昭和五〇年一二月ころ呼吸器に異常を感ずる。」と記載した。

(二) 昭和六〇年七月一一日付けの陳述録取書(甲D一六四号の一)において、「昭和四〇年ころから目立って風邪を引き易くなり、月に二、三度も引いていたでしょうか。一番ひどかったのは昭和四〇年代でした。」と陳述した。

(三) 昭和六一年六月二四日の本人尋問において、一番ひどかった時期について、「昭和四〇年ころであった(二八、二九項。八三、八四項。八七項)。昭和四五年ころだと思う(八九項)。答えない方がいいと思うので、答えたくない(九三ないし九五項)。昭和四〇年代だと思う(一三八項)。認定を受ける前後で、昭和五〇年である(一四〇、一四一項)。」と供述した。

同原告は、本人尋問において、「足を取られるようなことになるので、答えない方がいいと思う。」(九三項)と供述しているが、その弁解は理由のないものであり、同原告がどのような理由によって右のように様々な陳述をしているのか、その意図が分からない。

4 同原告は、陳述録取書において、「今井町診療所で診てもらったのは、人から聞いて、公害病ではないかと思ったからです。」と陳述し、本人尋問においても、「岡沢医師に公害のことを話したが、岡沢医師は、積極的にこれを取り上げてくれなかった。そのため親身になってくれる今井町診療所へ行き、相談をした。」(一一三ないし一一九項)と供述している。

そして、甲D一六四号の二及び中島澄行の供述によれば、同原告は、昭和五〇年一二月一三日ころ小田島光男医師に対し、「四、五年前より風邪を引き易くなり、せきたんが断続していたが、一年位前より咳嗽発作が増強してきた。」と説明し、小田島医師は、その説明のとおりに症状を記載した「検診書」を作成して、これを公害病の認定権者に提出した事実を認めることができる。

しかし、<証拠>によっては、右の検診書に記載された事実を認めることができず、他に右の事実を認めるに足りる証拠はない。

5 他方、<証拠>によれば、同原告は、昭和三九年に独立して、中島電機工業所を設立したのを初めとして、順次浜野電機工業所、中島興業株式会社、中島タイヤショップ、コンビニエンスストアカワサキ、花沢自動車中古車センターを経営し、現在に至っている事実を認めることができる。

6 以上の2ないし5のとおり、同原告が今井町診療所から「うがい薬とせき止め薬」をもらっていたに過ぎなかったこと、同原告の症状に関する陳述及び供述に一貫性がなく、信用性に乏しいこと、検診書の記載を裏付ける証拠が存在しないこと、同原告が昭和三九年から事業を拡大して、その経営に当たってきたことを総合すると、同原告がその主張に係る慢性気管支炎に罹患したものと認定するについては、疑わしい点がないではない。

しかし、症例検討(乙D二七九号)においては、前記のような同原告の本人尋問調書、陳述録取書及び検診書の各記載事項を前提として討議をした上、これを極く軽い症状の慢性気管支炎であると考察しているのであるから、これをも採用しないとするのは相当でない。

したがって、以上のような諸事情を総合して、同原告は、昭和五〇年一二月ころ軽い症状の慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

7 中島の供述によっては、同原告が喫煙していたとの事実を認めることができない。

また、中島の供述によれば、同原告は、昭和四二年から千葉市塩田町の国道一六号線に面した蘇我陸橋の南上り口付近に居住していた事実を認めることができるので、同原告は、自動車の排出ガスに暴露され、その影響を受けたものと推認することができる。しかし、同原告の疾病が自動車の排出ガスによって発症したとの事実を認めるに足りる証拠はなく、大気汚染による影響を無視するのは相当でない。

8 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

五〇中野忠成

1 乙D二七八号によれば、梅田博道らは、忠成の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 肝硬変である。

(二) 昭和五八年八月夜便所で意識不明になったのは、ぜん息によるものではなく、肝性昏睡又は食道静脈瘤の破裂によるものである。

(三) 気管支ぜん息ではなくて、喫煙による呼吸器症状である。

(四) 昭和五九年四月の発作は肝硬変の末期症状である。

2 忠成は、昭和四一年ころから身体の調子がおかしくなり、息切れがするようになって、昭和四六年冬にせきがひどくなり、たんも出るようになった。昭和五〇年ころから今井町診療所で診療を受け、気管支ぜん息と診断された。

甲D一七八号の二によれば、小田島光男医師は、昭和五一年七月二八日付けの「診断書」に、「五、六年前よりぜん鳴、せき、たん、息切れ、呼吸困難等が現れるようになったと言う。夜間及び起床時に上記症状増強するとのことである。」と記載した事実を認めることができる。

3 症例検討(乙D二七八号)においては、「最初のころ息切れを主張し、発作があまり現れていないので、気管支ぜん息ではなくて、タバコによる呼吸器症状ではないでしょうか。」との見解が示されている。

また、<証拠>によれば、忠成は、早くから喫煙も始めて、一日に二〇本位を喫い、少し量を減らしていたが、昭和五八年八月ころまで喫煙を続けていた事実を認めることができる。

忠成は、昭和五八年八月意識不明に陥って、約三箇月間蘇我病院に入院して治療を受けたが、同病院で十二指腸潰瘍が切れたと言われた。また、昭和五九年七月一七日再び倒れて川鉄病院に入院し、同月二八日肝硬変により死亡した。症例検討によれば、「十二指腸潰瘍もあって、食道静脈瘤が破裂したのかも知れない。」というのであるが、忠成の肝臓障害が何時ころから発症したのか、その時期を認定するに足りる証拠はない。中野の証言によれば、「忠成は、酒を飲んでいなかった。」というのである。

4 忠成は、昭和四一年九月から鴻池運輸株式会社千葉支店に勤務し、昭和五五年一月定年(五七歳)に達したが、再雇用により昭和五六年三月まで同会社に勤務した。<証拠>によれば、忠成は、同会社に「ぜん息がある。」と説明していたが、特段に健康の異常を示したことはなく、昭和五五年一〇月から昭和五六年二月までの間でも一箇月に二一日(二月のみ)ないし二三日出勤していた事実を認めることができる。

また、忠成は、昭和五六年六月から昭和五八年二月(六〇歳)まで千代田興業株式会社千葉営業所に勤務し、鉄材運搬車の助手として働いていたが、乙D二七〇号の二及び中野の証言によれば、忠成は、健康状態に異常を示したことがなく、「家の居ても、退屈である。会社へ行ってれば、気晴らしになる。」と言って働いていた事実を認めることができる。

5 甲D一七八号の一は、弁護士白井幸男と同鶴岡誠が忠成から昭和五九年四月五日までの間に聴取した事項を、鶴岡弁護士が昭和六一年四月二二日にまとめて書き上げた陳述録取書であり、甲D一七八号の三は、忠成の妻原告中野ふみが昭和六一年四月二二日に作成した陳述書であるが、中野の証言によれば、忠成は、妻ふみの前では病気のことを一切話していなかった事実を認めることができるので、甲D一七八号の一、三及び中野の証言によるだけでは、忠成の症状を詳細に認定することが困難である。

しかし、忠成は、昭和五〇年ころから今井町診療所で診療を受けていたのであるから、小田島医師が忠成の訴えに基づいて作成した「診断書」の記載事項は信用してよいものと見るのが相当である。

そして、長野準の証言によれば、「肝硬変では、せきとたんが出るようなことはない。」というのである。

6 したがって、以上のような事情を総合すると、忠成は、昭和五八年二月まで会社に勤務して、通常の労働に従事していたのであるが、昭和五〇年ころから今井町診療所で診療を受けて、気管支ぜん息と診断されたのであり、また、「診断書」の記載内容は、症状を説明するのに簡略に過ぎるものであったとしても、その症状からぜん息と診断することに何ら矛盾がないものと見るのが相当であるから、忠成は、昭和四六年冬ころ軽い症状の気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

7 中野の証言によれば、忠成は、タバコを喫うとむせび、むせぶと苦しそうにしていた事実を認めることができる。これによっても、喫煙は忠成の症状を増悪させる作用をしていたものと推認することができる。

しかし、忠成の疾病が気管支ぜん息であったことに照らせば、その疾病が喫煙によって発症したものと推認するのは相当でなく、大気汚染による影響を無視するのは相当でない。

忠成の肝臓障害及び肝硬変は、大気汚染によって発症したものでなく、その機序は明らかでない。しかし、忠成が昭和五九年四月ころ襲われた発作について、症例検討における考察に照らし、肝硬変によるところが大きいものであったと推認するのが相当である。

8 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と忠成の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

五一原告名取キクノ

1 乙D二七九号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 昭和四七年ころには気管支ぜん息らしいところがあるが、昭和四九年からは何でもない。

(二) 慢性気管支炎というよりは、上気道炎が主体である。

(三) 強いて付ければ、慢性気管支炎である。喫煙していて、せき・たんがあるから。

(四) 昔からあった蓄膿の急性増悪である。

(五) 副鼻腔も気管支拡張症も考えられる。

2 同原告は、昭和三五年ころから風邪を引き易くなり、せきが出て、たんがからむようになった。そのころ定期健康診断で気管支炎と診断され、そのころから今井町診療所で診療を受けた。昭和三六年にかけて症状が重くなった。昭和四七年ころ千葉市の集団健康診断を受けて、気管支ぜん息と診断され、同年と昭和四八年に症状が重くなった。症状が重いときには、せきが出て、たんがからみ、喉がゼイゼイ、ヒューヒューと鳴って、呼吸困難に陥った。

3 ところで、同原告は、昭和四八年三月一日付けをもって市条例により気管支ぜん息の患者と認定され、昭和四九年一一月三〇日付けをもって公健法により慢性気管支炎の患者と認定された。

同原告は、昭和三五年ころから気管支炎と診断されて、治療を受けていたのであって、昭和四七年に気管支ぜん息と診断されたことについては、これを裏付ける診断書等の証拠がない。しかし、症例検討においても、そのころに気管支ぜん息らしいところがあったというのであり、また、市の集団健康診断を受けてそのように診断されたというのであるから、その診断を信用するのが相当である。

そうすると、同原告は、昭和四七年ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

4 同原告は、昭和五〇年一月四日から同年一〇月まで川鉄病院に入院して、子宮筋腫と肝炎の治療を受けた。そのため同原告は、公害病認定申請のための集団健康診断を受けることができず、診断書の提出を有賀光医師に依頼した。甲D一八一号の二及び名取キクノの供述によれば、有賀医師は、「感冒時、せきたんの出ることあり。公害認定患者となっているので、本人の希望により診断書提出」と記載し、病名を「慢性気管支炎」とした「検診書」を作成して、これを提出した事実を認めることができる。

同原告は、症状が最も重かった時期を既に経過していたのであり、「感冒時、せきたんの出ることあり」というだけでは、慢性気管支炎の症状と見るのが困難であるということもできる。

しかし、症例検討においても、「強いて付ければ、慢性気管支炎である。」との見解が示されており、名取の供述によれば、同原告は、その後三年ごとに見直しの検査を受け、いずれも慢性気管支炎級外と認定されてきた事実を認めることができる。

そうすると、同原告は、昭和四九年一一月ころ軽い症状の慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

5 <証拠>によれば、同原告は、昭和二三年(二五歳)ころから喫煙を始め、昭和四六年三月ころには一日に一〇本位を喫い、その後量を減じたこともあったが、昭和五〇年一月に川鉄病院に入院するまで喫煙を継続したほか、既往症として蓄膿症と扁桃腺炎を患ったことがあり、川鉄病院に入院中も扁桃腺炎で何回か熱を出した事実を認めることができる。

そうすると、同原告の喫煙、蓄膿症及び扁桃腺炎は、慢性気管支炎の発症及び増悪に影響を及ぼしたものと推認するのが相当であるが、その喫煙歴が長かったことを考慮に入れても、その発症について大気汚染が影響を及ぼしたことを無視するのは相当でないものというべきである。

なお、<証拠>によれば、桜井信夫が昭和四六年三月千葉市で実施した千葉大方式BMRC調査において、同原告は、面接調査を受け、「最初にぜん息様の発作があったのは、三〇歳未満である。」と回答した事実を認めることができるけれども、この事実から直ちに同原告の気管支ぜん息又は慢性気管支炎が昭和二八年(三〇歳)以前に発症したものと認めるのは相当でない。

6 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息及び慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

五二原告丹羽芳子

1 乙D二七三号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 発症の時期が昭和二八年から昭和三一年というのであれば、大気汚染は発症に関係がない。

(二) アレルゲン検査が陰性であれば、感染型のぜん息である。

(三) 中年発症であるから、感染型の可能性が強い。

2 同原告は、昭和三〇年ころから風邪を引き易くなって、昭和三一、二年ころには風邪が長引くようになり、せきとたんが出て、呼吸困難となった。

発症の時期について考察するに、甲D一三四号の二によれば、昭和五〇年一月二五日付けの「検診書」には、「昭和二八年ころよりぜん鳴、せき、たん、呼吸困難等が出現するようになったと言う。」と記載されている事実を認めることができ、昭和五三年四月一七日付けの訴状には、「昭和二九年せきが持続的に出て、夜眠れなくなる。」と記載されている事実を認めることができる。しかし、丹羽芳子の供述によれば、同原告が作成した昭和五九年一一月付けの「陳述書」(甲D一三四号の一)の記載及び本人尋問における供述を信用するのが相当であるから、発症の時期については、<証拠>に基づいて認定するのが相当である。

同原告は、昭和三一年ころから症状がひどくなり、そのころ今井町診療所で気管支ぜん息と診断されたのであるから、同原告は、昭和三一年ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 丹羽の供述によれば、同原告は、昭和五〇年一月ころ今井町診療所において三一種類のアレルギー検査を受け、いずれも陰性と判定された事実を認めることができる。

同原告は、昭和二七年九月から昭和三三年まで千葉製鉄所で臨時雇として働き、煉瓦積み、くず鉄拾い、コークス粉ふるい粉けなどの作業に従事した。甲D一三四号の一及び丹羽の供述によれば、同原告は、その間に工場敷地内で、操業を開始した工場から排出された煙り、粉じん及び臭気等にさらされた事実を認めることができる。

4 原告は、昭和三八年から昭和四七年二月までつかだ食料品株式会社に勤務し、昭和四八年から昭和五二年五月まで赤坂中央軒株式会社に勤務した。丹羽の供述によれば、「同原告は、千葉製鉄所、つかだ食料品及び赤坂中央軒をいずれも病気で働けなくなったために辞めた。」というのであるが、丹羽の供述は、そのまま信用することができない。なぜならば、同原告は、昭和三一年ころから昭和三五年までの間が特に症状がひどく、昭和五四年一二月から昭和五五年六月まで再び症状が悪化したのであって、丹羽の供述によれば、昭和三六年ころから昭和五三年ころまでの間は発作もそれほどではなかった事実を認めることができるからである。また、甲D一三四号の一及び丹羽の供述によれば、同原告は、昭和二〇年四月生まれの長男智、昭和二三年生まれの二男春芳及び昭和二四年生まれの長女美千代をもうけて、昭和六〇年一月には一二歳を頭に六人の孫を持っていた事実を認めることができるのであるから、「生活が大変であった。三人の子を食べさせられなかった。夫の収入があまりなかったので、苦しくても働かなければならなかった。」という丹羽の供述は、これをたやすく信用することができないのである。

5 同原告は、昭和四七年二月つかだ食料品を辞めたが、同年中に行われた千葉市の集団健康診断を受診せず、昭和五〇年一月になって、公害病認定の申請をした。

同原告が昭和三一、二年ころから今井町診療所で診療を受けていたことに照らせば、同原告の症状は、市条例等による救済を必要とするまでに至らないものであったと推認することができ、昭和五〇年一月二五日付け検診書の記載事項も簡略なものにとどまっている。

丹羽の供述によれば、同原告は、症状が特にひどかったときには、今井町診療所に通院して吸入を受け、喉・へそ・腰・手・足に灸をすえたりしていたが、そのほかには同診療所から薬をもらったり、薬局から薬を買い求めて、これを服用していた事実を認めることができ、その程度にとどまっていたのであって、甲D一三四号の一及び丹羽の供述によれば、同原告は、気管支ぜん息の治療のために入院したことがなかった事実を認めることができる。

以上によれば、同原告の疾病の症状は、比較的軽いものであったと見るのが相当であり、同原告が気管支ぜん息の二級に認定されたことについては、その根拠に理解できない点がある。

6 同原告は、三四歳ころ気管支ぜん息に罹患し、症状の程度も軽かったのであるが、その疾病は非アトピー型のものと認めるのが相当であって、疾病の発症については粉じん等が影響を及ぼし、大気の汚染は疾病の増悪に影響を及ぼしたものと認めるのが相当である。

7 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

五三原告長谷川憲三郎

1 乙D二七七号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 慢性気管支炎である。

(二) せきとたんがあるときに熱を伴うのは、慢性気管支炎の増悪症状である。

(三) 喫煙が原因である。

2 同原告は、昭和四二、三年ころ何となく息苦しくなり、風邪が治りにくくなって、せきとたんが出るようになった。昭和四六年暮ころから喉がいがらっぽくなり、ゼイゼイして、せきとたんがひどくなり、息切れがするようになったので、鷲見病院に通院して診療を受けるようになった。

甲D一六五号の二によれば、鷲見正人医師は、昭和五〇年四月二五日付けの「検診書」に「昭和四九年二月ころより息切れ、咳嗽、喀たんを認め、以後現在まで治ゆしない。週二、三回通院、治療を受けている。」と記載し、その病名を「慢性気管支炎」と診断した事実を認めることができる。

同原告は、昭和五三年夏ころから鷲見病院に入院し、治療を受けている。

3 同原告は、公健法により昭和五〇年四月二六日から気管支ぜん息患者と認定され、昭和五六年四月二六日から気管支ぜん息及び慢性気管支炎の患者と認定されたのであるが、同原告の病名を気管支ぜん息であるとした診断書等は存在しない。もっとも、甲D一六五号の一には、「昭和五〇年初めころ鷲見病院で、気管支ぜん息である、と言われた。」との記載があり、長谷川憲三郎の供述によれば、「同原告は、通院していたとき鷲見医師から、ぜん息と言われた。」というのである。

ところで、乙D二八一号によっても、実地医療の場で、慢性気管支炎と気管支ぜん息を鑑別するのには難しい症例がある事実を認めることができるところ、長谷川の供述によれば、同原告は、公害病の認定を受けるに当たって、肺機能検査、血液検査、レントゲン検査等を受け、別にアレルギー検査を受けた事実を認めることができるのであるから、これによれば、公健法による疾病の認定にも根拠がないわけでもないものと思われる。

しかし 鷲見医師は、昭和四六年ころから同原告を診療していたのであるから、同医師が「検診書」に記載した事項及び診断した病名には信用性があるものと見るのが相当であり、同原告は、昭和五六年四月から慢性気管支炎患者と認定された。

また、同原告は、昭和四六年から鷲見病院に通院していたのに、市条例による公害病認定の申請をしなかったのであるから、発症の時期については「検診書」の記載に従うこととするのが相当である。

したがって、同原告は、昭和四九年二月ころから慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

4 同原告は、六七歳で罹患したのであり、長谷川の供述によれば、同原告は、二〇歳過ぎころから喫煙を始めて、働いていたころには一日に三箱から四箱を喫い、鷲見病院に入院した後もこれを続けて、昭和六一年三月(七九歳)当時も食後などに喫煙していた事実を認めることができる。これによれば、同原告の喫煙は疾病の発症に影響を及ぼしたものと推認することができるのであるが、同原告が昭和三八年一二月から本件地域に居住し、かつ、千葉製鉄所の敷地内で働いていたことに照らせば、大気汚染も疾病の発症に影響を及ぼしたものと見るのが相当である。

5 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

五四原告花沢誠

1 乙D二七七号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) ぜん息性気管支炎であったが、その後典型的な小児ぜん息となった。

(二) アトピー型である。

(三) 鼻のアレルギーがある。ペット(猫)を飼うのは良くない。

2 同原告は、昭和五〇年九月(生後六箇月)ころからせき、たん、鼻水が出て、風邪を引いたような症状が続いた。昭和五一年六月ころからせきとたんがひどくなり、熱も出るようになった。三歳までの間が最も症状がひどく、昭和五四年ころなら自分でたんを出せるようになったが、ゼイゼイが続いた。

甲D一六六号の二及び症例検討に照らし、同原告は、昭和五〇年九月ころぜん息性気管支炎に罹患し、昭和五二年三月(二歳)ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告は、生後六箇月で発症し、鼻水とくしゃみが出ていた上、昭和五五年春(五歳)ころから少しずつ良くなり、昭和五八年(八歳)ころにはせきがほとんど出なくなって、たんがからまなくなったのであり、また、花沢智子の供述によれば、同原告の家では宮崎町に住んでいたころ(昭和五八年春まで)猫を飼い、同原告の父は喫煙を続けていた事実を認めることができる。

したがって、同原告の疾病については、「典型的なアトピー型の気管支ぜん息に属するものであって、本件地域に居住している間に改善されたことから、大気汚染の影響によるものではなかった。」と見るのも、それなりの根拠を有するものということができそうである。

しかし、花沢の供述によれば、同原告は、一歳のころ今井町診療所でアレルギー検査を受けたところ、それは数種類のもので、十分なものではなかったけれども、いずれも陰性の判定を受けた事実を認めることができるのであり、同原告がアレルギー素因を有していたとの事実を認めるに足りる証拠はないのであるから、疾病の発症について大気汚染が影響を及ぼさなったとまで見るのは相当でない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被ったぜん息性気管支炎及び気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

五五原告林正樹

1 乙D二八〇号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 典型的な小児ぜん息である。

(二) ハウスダスト・アレルギーがあり、アトピー型である。

(三) 母からの受動喫煙、父母の離婚に伴う心因的要素、ペット(犬二匹)の飼育等が症状の増悪因子となった。

2 同原告は、昭和四三年冬(生後六箇月)に風邪を引き、せき、熱、鼻水、くしゃみが出たが、その後二、三年間冬になると風邪を引き易くなった。昭和四七年春(三歳)ころ呼吸をするときにかすかにゼイゼイ、ヒューヒューと音を立てるようになった。昭和四八年春ころからその音が大きくなり、しばしば呼吸困難に陥った。

林千代の供述によれば、「同原告は、大森町に転居して(昭和四七年一二月)、一年後位からぜん息の発作が始まった。」と供述するのであるが、甲D一六七号の二に照らしても、同原告は、昭和四八年春ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告は、昭和四八年一二月ハウスダスト・アレルギーがあると判定され、そのころから昭和五九年三月(中学校三年生)まで減感作療法を受けた。

また、林の供述によれば、「同原告の母(昭和二四年五月二八日生)は、同原告を出産したころから喫煙を始め、そのころは一日に一〇本位は喫っていたが、昭和五一年ころまで喫煙を続けた。同原告の父は、トラックの運転手をしていたが、昭和四八年一一月母と離婚して、大森町の借家から出て行った。母は、その当時水商売に従事して、夜の七時から一二時まで働いていたが、同原告を隣家に住んでいた姉に預けて、面倒を見てもらっていた。同原告は、父母が離婚したころから症状が悪くなった。母は、昭和五〇年ころ水商売を止めた。母は、同原告が小学校六年生のころから犬を二匹飼い始めた。今井町診療所から、『飼ってはいけない。』と言われたが、同原告の楽しみを取り上げるわけにはいかないと思い、犬を飼い続けた。」事実を認めることができる。

以上の事実によれば、同原告のアレルギー素因は疾病の発症に影響を及ぼしたものと推認することができる上、同原告の母の喫煙による受動喫煙、両親の離婚に伴う情緒の不安定、母の稼働に伴う生活環境の変化及び犬二匹の飼育は、いずれも症状の増悪に影響を及ぼしたものと推認することができる。

しかし、同原告は、生後六箇月ころから風邪を引き易い者であったところ、昭和四六年暮ころから本件地域に住んで、昭和四八年春ころ発症するに至ったのであり、また、同原告は、昭和五三年四月ころから軽快に向かって、昭和五六年四月ころからは大分良くなったのであるから、これについては同原告の成長によるところがあったとしても、大気汚染による影響を無視することは相当でないものというべきである。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

五六原告坂東茂

1 乙D二七五号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 呼吸機能が低い。

(二) 溶接工によるじん肺様呼吸器障害がある。

(三) 本件は気管支ぜん息のような感じである。ぜん息とすれば、職業性ぜん息である。

(四) 喫煙も増悪に働いている。

2 同原告は、昭和四一年ころから体調が悪くなることがあったが、医師の診療を受けるほどではなく、昭和四四、五年ころから喉がつまり、せきが出るようになって、医師の診療を受けた。昭和四七年六月松石久義医師から気管支ぜん息と診断され、昭和五〇年一月鷲見正人医師からも同じように診断された。

ところで、坂東茂の供述によれば、同原告は、最初の認定の際、主として肺活量の検査を受けた事実を認めることができるところ、坂東の供述によれば、同原告は、鷲見病院又は千葉大病院において、「一般の人は七〇位あるんだが、同原告は二五位しかない。」と言われた、というのである。甲D三〇号及び症例検討(乙D二七五号)によれば、右の「七〇又は二五」というのは、心肺機能検査所見としての指数(一秒量を予測肺活量で除した値に一〇〇を乗じたもの)をいうものであって、障害の程度の基準として、指数が七〇以下であるのは三級、それが五五以下であるのは二級、それが三五以下でかつその他の要件に該当するのは特級又は一級と定められている事実を認めることができる。しかし、指数二五というのは低過ぎるものであって、同原告は、昭和四八年九月まで東亜外業株式会社で働き、昭和五〇年まで昭和電工株式会社で働いていた上、疾病の治療のため入院したこともなかったのであるから、同原告の心肺機能指数が二五であったと認めるのは相当でない。

また、同原告は、昭和九年四月から電気溶接又はガス溶接による配管工事に従事してきたのであるが、じん肺はレントゲン検査で容易に診断することができるものである(乙D二七五号)ところ、これまでそのような診断を受けたとの事実を認めるに足りる証拠はなく、症例検討における考察のみをもって、同原告がじん肺様の呼吸器障害に罹患したと認めるのは相当でない。

したがって、同原告は、昭和四四年ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 坂東の供述によれば、同原告は、アレルギー検査がどんなものであるかを理解しておらず、「その検査を受けたかどうか、記憶していない。」というのである。

同原告は、昭和九年四月から溶接工として配管工事に従事してきたのであり、また、坂東の供述によれば、同原告は、かつて喫煙したことがあって、千葉製鉄所構内で働いていたころには一日に三本ないし四本を喫っていた事実を認めることができる。そして、坂東の供述によれば、配管工事は、鉄のパイプを鋸、グラインダー又はガスで切断した上、これを電気又はガスで溶接する作業であった事実を認めることができる。

これによれば、同原告が五七歳で罹患したことに照らしても、同原告の長期間に及ぶ職業環境及び喫煙は疾病の発症又は増悪に何らかの影響を及ぼしたものと見るのが相当であるが、同原告が昭和三六年四月から本件地域に居住し、かつ、千葉製鉄所の構内で作業を継続していたことを考えれば、大気汚染が疾病の発症に影響を及ぼしたことを無視することはできないものというべきである。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

五七原告矢口ヨシ江

1 乙D二七五号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) アレルギー性鼻炎とぜん息である。

(二) アレルギーが原因である。

2 同原告は、昭和四八年暮ころから風邪を引き易くなり、喉が痛んで、せきが止まらなくなり、また、熱もないのにせきが出て、息苦しくなり、喉がゼイゼイした。したがって、症例検討に照らしても、同原告は、昭和四八年暮ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 矢口ヨシ江の供述によれば、同原告は、今井町診療所においてアレルギー検査を受け、陽性と判定されて、暫くの間同診療所で減感作療法を受けた事実を認めることができる。

また、同原告は、昭和三六年六月矢口義男と婚姻して、横浜市鶴見区の朝日町、仲通り、栄町で生活し、昭和四六年千葉市作草部町に転居したものの、一時豊橋市で暮らして、昭和四七年一〇月から本件地域(千葉市南町二丁目)に居住したのであり、甲D一六九号の一及び矢口の供述によれば、夫の義男(大正五年生まれ)が建築土木業を営む会社に勤務していたので、同原告は、義男の稼働先の関係で各地を転々とし、義男の勤める会社で賄い婦として働いていた事実を認めることができる。同原告は、昭和四九年秋ころ同市南町三丁目のアパート鈴木荘に転居したが、矢口の供述によれば、同原告は、鈴木荘の一階六畳間を食堂とし、その二階で寝泊りしていた事実を認めることができる。

そして、<証拠>によれば、二酸化いおう又はいおう酸化物の濃度の年平均値を対比してみると、横浜市鶴見保健所における昭和四一年度から昭和四五年度までの測定値は、千葉市蘇我中学校における昭和四七年度から昭和五二年度までの測定値の約五倍であり、川崎市田島保健所における昭和四三年度から昭和四五年度までの測定値は、蘇我中学校における右の測定値の約八倍であった事実を認めることができる。

このように見ると、同原告は、横浜市鶴見区に約一〇年間居住し、昭和四七年一〇月から約一年二箇月本件地域に居住して疾病に罹患したこととなり、本件地域における暴露期間が短いのであるから、本件地域における大気汚染のみが発症の原因になったものと見るのは相当でない。

同原告は、三六歳で婚姻したのであるが、矢口の供述によれば、同原告は、二〇歳代から三〇歳代まで喫煙していた事実を認めることができる。

更に、同原告は、昭和五三年五月八千代市に転居し、発作が幾らか軽くなったが、昭和五四年船橋市に転居して、症状が悪化し、発作のひどいときに一〇日間位千葉健生病院に入院して治療を受けた。昭和五九年七月から現住所(非指定地域)に転居しても、症状は好転せず、発作が起きたときには北部診療所に通院している。

そうすると、疾病の発症については、同原告のアレルギー素因が影響を及ぼしたものと見るのが相当であるが、同原告が同じ素因を持ち合わせていながら、鶴見区に居住している間に発症しなかったことに照らせば、本件地域における大気汚染も発症に影響を及ぼしたものと見るのが相当であって、これを無視すべきものとするのは相当でない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

五八原告矢田部コト

1 乙D二七八号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 慢性気管支炎である。

(二) 喫煙が原因である。

2 同原告は、昭和四五年ころから喉がつかえるようになり、せきとたんが出るようになって、蘇我病院で診療を受けた。

症例検討に照らしても、同原告は、昭和四五年ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当である。

3 乙D三〇〇号の二、四、五及び矢田部コトの供述によれば、同原告は、昭和三〇年ころ(食料品店富士屋商店を開業したころ)から喫煙を始め、昭和四五、六年ころこれを止めたが、昭和四四年ころには一日に一五本位を喫い、止めるころにも一日に四、五本喫っていた事実を認めることができる。

甲D一七〇号の一によれば、同原告は、小田島光男医師から勧められて、昭和五一年ころから伊豆、蓼科高原等で転地療養を行い、その効果があった事実を認めることができるところ、同原告は、昭和五五年一一月から千葉市大木戸町(非指定地域)に住むようになったのであるが、症状はその後も悪化し、寒い季節にはひどい発作が起きて、昭和六〇年一月一四日から三箇月間、せきとたんがひどかったため蘇我病院に入院した。

そのほか、同原告は、昭和四六年一月ころ肺炎に罹患して、蘇我病院に入院し、昭和五三年にせきとたんがひどくなって、同病院に約一箇月間入院した。

これらによれば、同原告の疾病の発症については、同原告の喫煙及び体質的素因(乙D三〇〇号の二、五によれば、同原告にはアレルギー性疾患があると認めることもできる。)が影響を及ぼしたものと推認することができ、また、同原告の加齢が症状の増悪を促進したものと推認することもできる。しかし、同原告が昭和二七年七月から本件地域に居住し、昭和五三年に約一箇月間入院したことなどに照らせば、大気汚染も発症に影響を及ぼしたものと推認することができるのであって、同原告の喫煙のみをもって発症の原因と見るのは相当でない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

五九原告吉永春寿

1 乙D二七五号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 慢性気管支炎にするか、感染型ぜん息にするか、迷うところである。

(二) 気管支ぜん息兼慢性気管支炎とも書ける。

(三) 喫煙は慢性気管支炎の原因であると同時に、気管支ぜん息の悪化因子である。

2 同原告は、昭和三八年ころから喉がいがらっぽくなり、たんがからむようになって、風邪を引き易くなった。昭和四〇年ころからせきが出て、夜寝るときにせき込み、苦しくなった。昭和四三年になると、喉が痛くなって、たんがからみ、せきが出だすと、一〇分から二〇分位続いて、息がつまりそうになり、動悸や息切れもした。

3 同原告は、昭和三八年に膀胱を患って、今井町診療所に二、三週間入院したが、昭和四三年ころから再び同診療所に通院するようになった。

甲D一七一号の二によれば、小田島光男医師は、昭和五〇年二月一三日付けの「検診書」に、「昭和四三、四四年ころから咽頭痛、せき、たん、ぜん鳴等が現れてきた。更に動悸、息切れ等が加わってきたが、昭和四五、四六年ころより病状が悪化してきている。」と記載し、その病名を「慢性気管支炎」と診断した事実を認めることができる。

したがって、同原告を診察していた小田島医師の診断に基づき、同原告は、昭和四三年ころ慢性気管支炎に罹患したと認めるのが相当であり、症例検討における考察は、その認定を左右するに足りないものというべきである。

4 <証拠>によれば、同原告は、昭和二二、三年ころ佐世保市に出て飲食店の手伝いをするようになり、そのころから喫煙を始めて、一日に七、八本位喫っていたが、昭和五七年に千葉健生病院に入院するまで喫煙を続け、その入院前ころには一日に二、三本位喫っていた事実を認めることができる。

同原告は、昭和三三年暮から本件地域に居住したが、映画館の切符切りの仕事をしていたのであるから、室内に居る時間が多かったもの推認することができ、これによれば、同原告の疾病の発症については、同原告の喫煙が影響を及ぼしたものと推認することができる。

しかし、同原告は、蘇我映劇で働いていた昭和四三年ころ疾病に罹患し、その症状が昭和四五、六年に最もひどかったというのであるから、疾病の発症及び増悪の原因がすべて喫煙にあると見るのは相当でなく、これについて大気汚染による影響を無視することは相当でない。

5 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

六〇原告渡辺なつ

1 乙D二七八号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 肺気腫でおかしくない。

(二) 喫煙、慢性気管支炎、肺気腫の流れである。

(三) 喫煙が原因である。

2 同原告は、昭和四六年ころからせきが長く続いてこれにたんがからみ、息切れがするようになって、岡沢医師から慢性気管支炎のようだと言われ、昭和四八年春にも小田島光男医師から慢性気管支炎と診断されたが、更に必要な検査を受けたところ、肺機能が低下していると言われ(甲D一七二号の一)、市条例により肺気腫の患者と認定された。

したがって、甲D一七二号の二及び症例検討に照らしても、同原告は、昭和四六年ころ慢性気管支炎に罹患し、昭和四八年春ころ肺気腫に罹患したと認めるのが相当である。

3 渡辺なつの供述によれば、同原告は、一八歳か一九歳のころから喫煙を始め、これを五七歳ころまで続けていた事実を認めることができる。同原告は、「仕事をしていたから、一日に一本か二本しか喫えなかった。」と供述しているが、その供述によれば、同原告は、刻みタバコを喫っていた事実を認めることができるので、その喫煙量を的確に認定することはできない。しかし、渡辺の供述によれば、同原告は、昭和四六年ころ岡沢医師から、「慢性気管支炎だから、タバコは喫わない方がいいし、風呂もあまり入らない方がいい。」と言われた事実を認めることができ、これに同原告の疾病が昭和四八年春には肺気腫に進んでいたことに照らせば、同原告の喫煙は疾病の発症及び増悪に影響を及ぼしたものと推認するのが相当である。

他方、同原告は、昭和一二年から昭和二四年までの間に四男一女をもうけ(甲D一七二号の一)、昭和二〇年から現住所(指定地域)に居住して、昭和三九年七月まで食品会社で働き、健康であったのであるから、大気汚染も疾病の発症に影響を及ぼしたものと見るのが相当である。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った慢性気管支炎及び肺気腫との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

六一原告桑田清次郎

1 乙D二七四号によれば、梅田博道らは、同原告の症例を検討して、次のように考察した事実を認めることができる。

(一) 職業上の環境として穀物の粉じんを重視しなければならない。少なくとも、増悪の原因となった。

(二) 「肺がまっ黒」というのがカゲのことであったとすれば、ぜん息はおかしい。

(三) 「肺がまっ黒」がなければ、ぜん息の症状である。

(四) 精米の穀物粉がひどいから、過敏性肺臓炎とも考えられる。しかし、精米で過敏性肺臓炎とか穀物肺とかになった例を見たことはない。

(五) 心因的要素も大きい。

(六) 自動車の排出ガスも原因となっている。

2 同原告は、昭和四六年八月ころゼイゼイヒューヒューが続くようになり、たんが出て、動悸が高まり、息切れがした。昭和四八年八月ころからせきとたんが多くなり、発作時には呼吸ができなくなって、胸が苦しくなった。

桑田清次郎の供述によれば、同原告は、昭和四六年八月ころ矢沢医院に約一箇月間通院したが、検査を受けたことはなく、うがい薬をもらっていたに過ぎなかった事実を認めることができる。また、甲D一四一号の二及び桑田の供述によれば、同原告は、昭和四八年八月ころせきとたんが多くなっても、医者にかかったことはなく、昭和五二年一一月ころ小田島光男医師の診察を受けて、気管支炎であると言われ、小田島医師は、同年一二月一日付けの「検診書」に、「昭和四六年八月ころよりぜん鳴、せき、たんが続いていたが、昭和四八年八月ころより呼吸困難が加わり、症状が悪化してきたと言う。」と記載して、その病名を「慢性気管支炎」と診断した事実を認めることができる。

同原告は、レントゲン検査を受けて、小田島医師から「肺がまっ黒に汚れている。」と言われたというのであるが、症例検討における考察によっても、それがどのような病像を表現するものであるのか、判然としない。

しかし、<証拠>によれば、同原告は、公害病の認定を受けるに当たって、指定病院による検査等を受け、気管支ぜん息と認定された事実を認めることができるのであるから、同原告は、昭和四六年八月ころ気管支ぜん息に罹患したと認めるのが相当である。

3 同原告は、兵役に服した期間を除いて、大正一五年から昭和五〇年まで米穀商に従事し、昭和四六年八月に六一歳で疾病に罹患したのであり、桑田の供述によれば、同原告は、店舗の一部で精米作業を行っていたので、常時その粉じんに身をさらしていた事実を認めることができる。しかし、症例検討によっても、精米によって過敏性肺臓炎等が発症した例はなかったというのであるから、同原告の精米に伴う粉じんへの暴露が疾病の発症をもたらしたものと見るのは相当でない。

また、桑田の供述によれば、同原告は、バス通りに面した場所に居住して、米穀商を営んでいたのであり、その場所は国道一六号線からも近い位置にあった事実を認めることができる。これによれば、同原告は、自動車の排出ガスによる影響を受けたものと推認することができるのであるが、どの程度の暴露であったのかも明らかでないのであるから、自動車の排出ガスによって同原告の疾病が発症したものと見るのも相当でない。

4 したがって、大気汚染の状況及び主治医の検診の結果等に照らせば、被告の行った侵害行為と同原告の被った気管支ぜん息との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当であり、その認定を左右するに足りる証拠はない。

第六章責任原因

第一大気汚染防止法二五条一項の規定による責任

一本文第三章ないし第五章にそれぞれ記載したとおり、被告は、千葉製鉄所における事業活動に伴い、いおう酸化物、窒素酸化物及び浮遊粒子状物質を大気中に排出したことによって、死亡患者ら(ただし、飯島治郎を除く。)及び患者原告らの生命又は身体を害したものということができる。

二したがって、被告は、同法二五条一項の規定に従い、同法の施行期日である昭和四七年一〇月一日以降の排出行為によって生じた損害については、無過失でもこれを賠償する責任がある。

第二民法七〇九条の規定による責任

一立地及び操業開始の過失

1 <証拠>によれば、次の事実を認めることができ、その認定を左右するに足りる証拠はない。

我が国においては、早くからいおう酸化物による公害が発生しており、代表的なものとしては、(一)明治二三年ころの足尾銅山事件のばい煙による被害、(二)明治二六年ころの別子銅山事件のばいじん、亜硫酸ガスによる呼吸器疾患等の人体被害、(三)大正二年ころの日立鉱山煙害事件の亜硫酸ガスによる被害などが知られていた。我が国では、大正時代から亜硫酸ガスによる職業病の研究が進められており、昭和二二年ころから昭和三〇年ころまでの間に報告された事例では、濃度が一ppmないし一〇ppmのところで障害が発生した事例があった。また、海外における事例としては、(一)昭和五年ころのトレイル事件における亜硫酸ガスによる被害、(二)昭和五年ころのミューズ事件における工場からの排煙による急性呼吸器病患者の急増、(三)昭和二三年ころのドノラ事件における亜硫酸ガスによる被害、(四)昭和二七年ころのロンドンスモッグによる過剰死亡の事件などが良く知られていた。

2 このような知見と被告の規模・資力等を考えれば、被告は、千葉製鉄所を立地する時点において、「その生産過程から発生するばい煙及び亜硫酸ガス等を大気中に排出するならば、これによって人体に呼吸器疾患の被害を発生させるかも知れない。」と予見することが可能であったものというべきである。

したがって、被告は、その生産過程から多くの大気汚染物質を排出する工場を建設しようとしたのであるから、その排出物質の性質と量、排出施設と周辺居住地域との位置関係、風向風速等の気象条件等の調査を十分に行い、付近住民の生命身体に危害を及ぼすことのないように万全の防止対策を講じた上で立地し、操業を開始すべき注意義務があったものというべきである。

3 しかし、<証拠>によれば、被告は、千葉製鉄所を現在の場所に立地するに当たって、地形、地盤、用水、電力、港湾、鉄道、労働力、市場などの問題については検討したものの、工場からの排出物質の性質と量、排出施設と周辺居住地域との位置関係、風向風速等の気象条件等の調査を十分に行わなかった上、千葉製鉄所の操業が周辺住民の生命身体にどのような危害を及ぼすかの問題について十分に検討をしないで、これを立地したものと認めるのが相当である。

そうすると、被告には立地及び操業開始上の過失があったというべきである。

二操業継続の過失

1 被告は、千葉製鉄所の操業を継続するに当たって、その製造過程から多量の大気汚染物質を大気中に排出するのであるから、その排出物質について有害性の有無及び程度、並びに周辺住民の健康に対する影響の有無等を調査研究し、付近住民の生命身体に危害を及ぼすことのないように万全の防止対策を講じた上で操業すべき注意義務があったものというべきである。

2 しかし、<証拠>によれば、被告は、昭和四七年に千葉製鉄所の社員全員を対象として健康調査を行っただけであって、周辺住民についてはこのような健康調査もしていなかった事実を認めることができる。

3 被告は、理由の部第九章の第三に記載したとおり、千葉県の策定に係る公害防止計画に従い、千葉県及び千葉市との間に種々の公害防止協定を締結して、これを実行し、昭和三四年一〇月ころから順次ばいじん対策、粉じん対策、二酸化いおう対策及び二酸化窒素対策を実施した。しかし、被告が昭和四七年一〇月一日までの間に実施した公害防止対策がどのような効果をもたらしたかについては、これを数値をもって的確に認定することができないのであり、被告がその後においても防止対策を実施していたことに照らせば、昭和四七年一〇月一日までに実施された防止対策ではまだ十分でなかったものと認めるのが相当である。

4  したがって、被告は、千葉製鉄所の操業を継続するに当たって、その注意義務を尽くさなかったものというべきであるから、操業の継続上においても過失があったというべきである。

三故意

被告の千葉製鉄所から排出された大気汚染物質は、付近住民の生命身体に危害を及ぼすものであったのであるが、被告が患者原告ら及び死亡患者らの被害の発生を容認していたとの事実については、これを認めるに足りる証拠がない。また、被告は、千葉県の策定に係る公害防止計画に従って、公害防止対策を実施し、環境行政にも対応してきたのであるから、この点から見ても、被告が故意をもって近付住民の健康に影響を及ぼすような操業を継続してきたとは認めることができず、他に被告の故意を認めるに足りる証拠はない。

第七章差止請求

第一操業差止請求

一差止原告らは、被告に対し、「千葉製鉄所において第六溶鉱炉の操業をしてはならない。」と請求し、請求原因として、「千葉製鉄所から排出される二酸化いおう等の有害物質によって健康を侵害され、あるいはその危険にさらされているから、人格権又は環境権に基づいて、第六溶鉱炉の操業の差止めを求める。」と主張している。

二しかし、千葉製鉄所からの大気汚染物質の排出状況は、理由の部第三章の第二の二に記載したとおりであるから、そのうちの第六溶鉱炉の公健法の差止めを求めるについては、第六溶鉱炉から排出される汚染物質が本件地域における大気汚染に対してどの程度の影響を及ぼしているのかを特定し、それが差止原告らに対してどの程度の被害を与えているのかということまでを特定して、これを主張し立証しなければならないものというべきである。ところが、差止原告らは、本件訴訟において右のような主張及び立証をしていない。

乙C一二、一三号によれば、被告は、第六溶鉱炉を建設するに当たって、千葉県及び千葉市との間に、昭和五〇年三月五日に「第六溶鉱炉及び同関連施設の建設に関する協定書」を、同年四月一二日に「公害の防止に関する細目協定書」をそれぞれ作成した事実を認めることができる。しかし、右の事実をもって、差止原告らが第六溶鉱炉から排出される汚染物質によって健康を侵害されているとか、健康を侵害される危険にさらされているという事実を推認することはできないものというほかない。

三したがって、差止原告らの第六溶鉱炉の操業差止請求は、人格権又は環境権の存否などその余の点について考察するまでもなく、不当なものというべきである。

第二排出差止請求

一差止原告らは、被告に対し、「差止原告(居住者)らに対しては各住所地所在の住居敷地内に、差止原告(勤務者)らに対しては各勤務先の敷地内に、それぞれ一定数値(昭和四八年の環境基準)の各濃度を超える二酸化いおう、二酸化窒素及び浮遊粒子状物質を侵入させてはならない。」と請求している。

二訴訟上の請求は、審判の対象として、その権利又は法律関係が明確に特定されていなければならない。また、請求の特定は、判決の既判力の客観的範囲を明確にするために必要であるばかりでなく、判決による強制執行を的確に実現させるためにも必要である。

ところで、差止原告らは、「それは抽象的不作為命令を求めるものであり、その不作為を実現するための作為の内容は多様であるが、差止原告らにはその内容を決定するための専門的知識及び能力が乏しいのであるから、不作為の内容を特定さえすれば、請求を特定したことになる。その不作為命令を実現するための作為内容を具体的に選択することは、被告に委ねるものとするのが適切である。」と主張し、また、「被告が判決に従わないときには、間接強制の方法による強制執行が可能である。」と主張する。

三しかし、排出差止請求の趣旨については、次のような問題がある。

1  被告に対し、「一定数値の各濃度を超える三物質を侵入させてはならない。」と命ずるだけでは、被告が履行すべき義務の内容が特定されているということができない。

差止原告らは、「作為内容の選択は、被告に委ねるのが適切である。」というのであるが、それでは被告に任意的履行を期待するにとどまることになり、判決は被告に心理的強制を加えるに過ぎないものとなる。

被告の作為義務が一義的に特定されていないのであれば、間接強制によることも、代替執行によることも事実上不可能である。

2  本件地域、特に差止原告らの各住居敷地内又は各勤務先敷地内に到達する三物質が千葉製鉄所から排出されたものであることを識別することは事実上不可能である。なぜならば、本件地域における大気の汚染に原因を与える者は、千葉製鉄所だけに限らず、不特定多数の者がこれに当たると見るのが相当であるばかりでなく、三物質は常に流動しているものであるからである。

四したがって、差止原告らの排出差止請求は、請求の趣旨が特定していないことと、強制執行が不能なものであることのゆえに、いずれも不適法なものというべきである。

第八章損害賠償請求

第一総論

一一部請求

患者原告ら及び死亡患者らの訴訟承継人原告ら(以下この章においてこれらの者を合わせて「原告ら」という。)は、被告に対し、「患者原告ら及び死亡患者らは、生命身体の侵害及び本件疾病への罹患という損害のほか、本件疾病への罹患による精神的・身体的苦痛、治療のための時間的・経済的損失といった生活全域における損害を被っているので、これに被告の有責性、侵害行為の程度など諸般の事情を考慮した上、各損害発生時から口頭弁論終結時(又は死亡日)までの包括慰謝料として、死亡患者らについて各三〇〇〇万円、一級であった患者原告らについて各二〇〇〇万円、二級であった患者原告らについて各一五〇〇万円、三級又は級外であった患者原告らについて各一〇〇〇万円の支払を請求する。」というのである。

そこで、被告は、「原告らの請求は一部請求であるところ、原告らは、各自の全損害額を明らかにしていないばかりでなく、損害の内容を費目別積み上げ方式によるものでなく、健康被害そのものであるとしているため、その請求に係る一部請求額を残額と法律上区別することが不可能であるから、このような一部請求は法理論上許されない。」と主張する。

ところで、原告らは、「本件疾病がいずれも呼吸器の障害を伴うものであって、途切れることなく継続し、これが治癒することはないのであって、これによる影響は生活全域に及び、多かれ少なかれ生命の危機にさらされているのであるから、原告らが請求している損害賠償請求額は極めて控え目なものである。」と主張している。

しかし、原告らは、その損害の全額を何ら明示していないのであるから、右のように控え目な請求であるとはいっても、それが本来の意味の一部請求に当たるものということはできない。むしろ、原告らは、口頭弁論終結時までに発生した損害賠償請求権の全部について、これを理由付けるための事実を主張し、その損害額が少なくとも原告らの請求する金額以上であるとして、その請求をしているものと解するのが相当である。そうすると、原告らの請求に係る金額は、判決による認容額の上限を画するに過ぎないものであって、本件における審判の対象は、原告らの損害賠償請求権全部の存否であり、この判決の既判力は、口頭弁論終結時までに発生した損害賠償請求権の全部に及ぶものと解すべきこととなるのであって、本件において請求する金額が全損害の一部に過ぎない旨に読み取れる文言があるとしても、原告らは、後に別訴によって残額の請求をすることは許されないこととなる。そして、原告らの本訴請求を右のように解すべきものとしても、そのことは被告に対し何ら不利益を与えるものではない。

したがって、被告の主張は失当であるから、これを採用することはできない。

二一括請求

原告らは、本件疾病に罹患して生命身体に侵害を被り、生活全域に損害を被ったとして、包括慰謝料を請求している。

これに対し、被告は、「原告らは、それぞれ現実に支出した医療費、介護費、入院雑費、通院交通費、逸失利益、年齢、損害の程度、他の疾病の介在、当該患者やその家族の精神的苦痛等諸般の要素を勘案した上で、当該慰謝料を算定すべきものであって、このような個別的な要素を考慮することなく、一部請求及び一律請求と結び付けて一括請求をすることは、これを認めるべきでない。」と反論する。

なるほど、原告らは、包括慰謝料を請求するというにとどまっていて、「医療費、逸失利益等の個別的損害費目を明示して費目ごとに数額を算出し、これを積み上げて損害額とする。」という費目別積み上げ方式による主張をしていない。しかし、被告の侵害行為は継続的なものであって、一過性のものでなく、また、侵害行為と被害の発生を一対一の関係で捉えることは困難であるばかりでなく、患者原告らの被害も長期間に及んでいて、患者原告ごとの症状及び労働能力喪失の状況も一様ではないのであるから、費目別積み上げ方式に従って各自の損害額を算出するものとすれば、その計算は複雑かつ困難なものとなる。したがって、このような煩さを避けるためには、原告らの主張するような一括請求であっても、それが当該不法行為に基づく損害賠償請求権に係る全部請求であり、かつ、慰謝料の名の下に異質の損害を取り込むような請求でない限り、許されるものと解するのが相当である。

ところで、原告らの請求が全部請求であることは、前記一に記載したとおりである。次に、原告らは、費目別積み上げ方式による旨を明示していないものの、治療のための時間的・経済的損失といった生活全域における損害を被ったというのであるから、固有の意味の精神的損害に対する慰謝料のほか、休業損害及び逸失利益等の財産的損害に対する賠償を含めたものを包括慰謝料として請求しているものと解するのが相当である。そして、原告らは、財産的損害に対する賠償について、患者原告らごとの休業損害及び逸失利益等を具体的に算定するのに基礎とすべき事実を主張・立証していないので、これについては、患者原告らが健康被害を被ったことによって稼働できなかったことなどの事情を慰謝料算定の基礎資料に組み入れて、これを考慮するほかないのであるが、このような方式を採用するとしても、これをもって、慰謝料という名の下に異質の損害を取り込むものというのは当たらないものというべきである。また、被告は、右のような算定の方式を前提として反論をしているのであるから、この方式を採用するとしても、不意打ちを受けることはない。

そうすると、被告の主張は失当であるから、これを採用することはできない。

三一律請求

原告らは、包括慰謝料として、死亡患者らについて各三〇〇〇万円、一般患者らについて各二〇〇〇万円、二級患者らについて各一五〇〇万円、三級患者及び級外患者らについて各一〇〇〇万円の支払を請求している。

これに対し、被告は、「患者原告ら及び死亡患者ら各自の健康被害は、その症状及び原因がそれぞれ異なり、損害額も一律でない上、公健法による等級別の補償給付額は、被害者救済という行政目的に沿った大胆な割切りによるものであるから、公健法の障害等級を基準とすることは不当である。また、症状が改善されて障害等級が変更になった者を、障害等級に変更がない者と同等に扱うことも不当である。更に、死亡患者らは、その死亡時の年齢及び死因がそれぞれ異なっているのに、これを一律に扱うことも不当である。」と反論する。

確かに、被告の主張するとおり、患者原告ら及び死亡患者らが被った損害額は、被害者ごとに被害の内容・程度、その他個別的な諸事情を考慮して算定されるべきものである。しかし、原告らが、患者原告ら及び死亡患者らの被った損害の態様を幾つかの類型に区分し、その区分された類型に共通して認められる性質に照らして、類型ごとの損害額を算出し、これに基づいて損害賠償を請求したとしても、これを排斥すべき理由はないものというべきである。

また、原告らは、死亡者及び公健法による障害等級に従って四段階の類型に区分し、類型に該当する者ごとに一律の損害額の賠償を請求しているのであるが、当裁判所は、患者原告ら及び死亡患者らの被った損害額を認定するに当たって、原告らの右のような一律的請求の主張に拘束されることはないのである。

したがって、原告らの一律請求を不当なものとする理由はないのであるから、被告の主張は失当であり、これを採用することはできない。

四補償制度

1 公健法、市条例及び市要綱の各規定に基づく補償制度は、理由の部第九章の第二の一ないし六に記載したとおりである。

すなわち、障害補償費が支給される障害の程度及びその基準は別表一三八及び別表一四〇記載のとおりであり、児童補償手当が支給される障害の程度及びその基準は別表一三九及び別表一四一記載のとおりである。

2 そして、患者原告ら及び死亡患者らの生年月日、性別及び認定状況並びにその個別的被害状況は、理由の部第六章の第三及び第四に記載したとおりであり、被告の侵害行為との間に相当因果関係の認められる健康被害は、本文第五章の第五に記載したとおりである。

3  したがって、当裁判所の認定に係る症状等から見ると、公健法の規定による障害等級の認定基準と、患者原告ら及び死亡患者らが公健法及び市条例等により認定を受けた障害等級との間には、符合しないものと認めるべき症例があるものというべきであるから、患者原告ら及び死亡患者らが認定を受けた障害等級をもって、そのまま損害額算定のための基礎資料とするのは相当でない。

五その他考慮すべき事情

1 原告らは、賠償を求める損害の範囲について、患者原告らについては口頭弁論終結時(昭和六二年五月二七日)までに生じた損害であり、死亡患者らについては各死亡の日までに生じた損害であると主張する。

ところで、患者原告らについては、各人の罹患した疾病による症状が口頭弁論終結時の後においても残るものと推認することができるので、これによる精神的損害及び財産的損害をどのように考慮すべきかが問題となる。患者原告らの症状は、口頭弁論終結時に至るまでの間においても、軽快したり、重篤になったりして、変動していたのであって、その症状がある時期に固定したものと認定することはできない性質のものであり、また、右のような症状の変動は、口頭弁論終結時後においても起こり続けるものと推認することができる。しかし、将来における症状の推認については、これを的確に把握することができないものというほかないのであるから、口頭弁論終結時後においても継続すると推認し得る症状に起因する損害については、これを賠償額算定の対象として取り込まないものとするのが相当である。

2  患者原告ら及び死亡患者らの損害額を算定するに当たっては、各人ごとの個別的事情を考慮すべきであり、その事情としては、罹患した疾病の種類、症状の程度及び推移の状況、治療のための入通院の状況、罹患した期間、発症時の年齢、職業、家族構成、疾病の発症及び症状の増悪に影響を及ぼした原因及びその程度、死亡の原因等を挙げるべきものということができる。

六損益相殺

1 公健法は、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる著しい大気の汚染等の影響による健康被害に係る損害を填補するための補償を行うこと等により、健康被害に係る被害者の迅速かつ公正な保護を図ることを目的としている(同法一条)。そして、<証拠>によれば、公健法の規定による補償給付の種類及び内容は、次のとおりであると認めることができ、その認定を左右するに足りる証拠はない。

(一) 療養の給付及び療養費(同法一九条、二四条)

被認定者の指定疾病について、診察、薬剤又は治療材料の支給、医学的処置、手術及びその他の治療、病院又は診療所への収容、看護、移送の給付を行う。

右のような療養の給付を行うことが困難であると認めるときなどには、療養の給付に代えて、療養費を支給する。

(二) 障害補償費(同法二五条)

一五歳以上の被認定者に対し、指定疾病による障害の程度に応じた障害補償費を支給する。障害補償費は、指定疾病によって労働能力を喪失している状態にある者や日常生活が困難な状態にある者を対象として支給される。

障害補償費の額は、全労働者の男女別、年齢階層別の平均賃金を基礎として定められる障害補償標準給付基礎月額に、障害の程度に応じた率を乗じて算定される。

障害の程度が特級である者には介護手当が加算される。

(三) 遺族補償費(同法二九条)

被認定者が指定疾病に起因して死亡したときは、被認定者の遺族に遺族補償費を支給する。その遺族は、配偶者、子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹であって、死亡当時その者によって生計を維持していたものである。遺族補償費は、被認定者の逸失利益相当分及び精神的損害相当分並びに遺族固有の精神的損害相当分として支給される。

遺族補償費は、一〇年間定期的に支給される。

(四) 遺族補償一時金(同法三五条)

被認定者が指定疾病に起因して死亡した場合において、遺族補償費を受ける遺族がないときは、当該遺族以外の遺族に遺族補償一時金を支給する。

(五) 児童補償手当(同法三九条)

一五歳未満の被認定者を養育する者に対し、指定疾病による障害の程度に応じた児童補償手当を支給する。児童補償手当は、指定疾病に罹患した児童について、家庭・近隣・学校において通常の児童なみの生活ができないことによる苦痛があること、成長が遅れる、学業が遅れるなどにより現在及び将来に支障を来たすことがあること、発作等による肉体的・精神的苦痛があることのほか、扶養者について、養育に手間が掛かり、働けなくなることなどが考慮され、究極的には児童の保護を図ることを目的として支給されるものであるが、その性格は慰謝料的な要素が中心となっている。

児童補償手当は、日常生活における支障の程度等に応じ、月を単位として定期的に支給される。

(六) 療養手当(同法四〇条)

被認定者が指定疾病について療養の給付を受けているとき、その病状の程度に応じた療養手当を支給する。療養手当は、入院に要する諸雑費、通院に要する交通費等に充てるために、入院通院期間の要素を定型化したものとして支給される。

(七) 葬祭料(同法四一条)

被認定者が指定疾病に起因して死亡したときは、葬祭を行う者に葬祭料を支給する。それは通常葬祭に要する費用として定額が支給される。

2 乙E一ないし四号によれば、市条例、市要綱及び過去分補償要綱に基づく補償給付の種類及び内容は、次のとおりであると認めることができ、その認定を左右するに足りる証拠はない。

(一) 医療費(市条例五条)

被認定者が認定疾病について診察、薬剤又は治療材料の支給、医学的処置、手術及びその他の治療、病院又は診療所への収容、看護、移送を受けたときは、その者に対し医療費を支給する。

(二) 医療手当(市条例七条)

被認定者が認定疾病について前記(一)の医療を受けており、かつ、その病状が規則で定める病状の程度を超えるときは、その者に対し医療手当を支給する。

(三) 介護手当(市条例九条)

被認定者が介護を要する状態にあり、かつ、介護を受けているときは、その者に対し介護手当を支給する。

(四) 市要綱による被認定者及びその遺族又は養育者並びに葬祭を行う者に対し、公健法の例により療養の給付及び療養費、障害補償費、遺族補償費、遺族補償一時金、児童補償手当、療養手当及び葬祭料を支給する(市要綱五条)。

(五) 遺族補償金(市要綱六条)

公健法及び市要綱による被認定者が死亡したときは、その遺族に対し遺族補償金を支給する。

その額は、認定疾病に起因して死亡したときは一二〇〇万円、認定疾病以外の原因に起因して死亡したときは六〇〇万円とする。

(六) 療養補償金(市要綱七条)

被認定者が障害補償費又は児童補償手当の支給を受けることができないときは、その者に対し療養補償金を支給する。

(七) 短期療養手当(市要綱八条)

被認定者が療養手当の支給を受けることができない場合において、療養を受けた日数が一月につき二日又は三日であるときは、その者に対し短期療養手当を支給する。

(八) 補償一時金(過去分補償要綱六条)

市条例による被認定者(昭和四九年一一月二九日以前に死亡した者を除く。)に対し、次のとおり補償一時金を支給する。

(1) 昭和四九年一一月二九日以前における市条例の認定期間が二年以上三年未満の者に対し一五〇万円

(2) 右の認定期間が二年未満の者に対し一〇〇万円

(3) 昭和四九年一一月二九日において一五歳未満であった者については、右の認定期間が二年以上三年未満の者に対し一〇〇万円、二年未満の者に対し七〇万円

3 <証拠>によれば、患者原告ら、死亡患者ら及びその遺族らは、公健法、市条例、市要綱及び過去分補償要綱に基づき、昭和六二年五月分までのものとして、目録一五患者原告公健法等給付額一覧表記載のとおり、医療手当・介護手当(これは阿部作治のみ)、補償一時金、障害補償費・療養補償金・児童補償手当、療養手当・短期療養手当、遺族補償費(小高宗彦、飯島治郎)・遺族補償一時金(阿部作治、大島花)・遺族補償金(橋爪静男、大島花)及び葬祭料の各給付を受けた事実を認めることができ、その認定を左右するに足りる証拠はない。

4  前記3に記載した公健法、市条例、市要綱及び過去分補償要綱に基づく補償の給付は、本件において認定した健康被害と同一の被害を填補する目的の下に行われたものと認めることができる。

そして、本章第一の二に記載したとおり、原告らは、固有の精神的損害に対する慰謝料のほか、休業損害及び逸失利益等の財産的損害に対する賠償を含めたものを包括慰謝料として請求しているものと解すべきであるところ、公健法等による補償の給付のうち、補償一時金(過去分補償)、障害補償費・療養補償金・児童補償手当、遺族補償費・遺族補償一時金・遺族補償金は、いずれも右の損害を填補するものに当たるものと認めるのが相当である。

したがって、患者原告ら及び死亡患者らに生じた損害は、いずれも右の各給付額の限度において填補されたものというべきであって、原告らの損害賠償額を算定するに当たっては、いずれもこれを控除するのが相当である。

七弁護士費用

原告らが原告ら訴訟代理人らに対して本件訴訟の提起及び遂行を委任し、原告ら訴訟代理人らがこれを受任して訴訟手続を遂行した事実は、当裁判所に顕著な事実である。

原告らが被告に対しその不法行為と相当因果関係のある損害として賠償を求め得る弁護士費用としては、本件事案の内容、訴訟行為の難易度、認容額等諸般の事情を考慮し、各認容額の約一割に当たる額の限度において認容するのが相当である。

第二個別的損害額

一原告稲葉正

1 同原告は、昭和四五年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和五三年三月まで千葉高等学校に勤務し、比較的軽症であった。喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一〇〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費七四三万八六八〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一〇六万一三二〇円となる。弁護士費用は、一〇万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一一六万一三二〇円となる。

二原告漆原トモ

1 同原告は、昭和四一年六月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和四九年三月から狭心症がこれに合併した。昭和五三年八月非指定地域に転居した。昭和六〇年一二月に二級の認定を受けたのは、大気汚染以外の要因が影響を及ぼしていたことを推測させる。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を八〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費五六二万一三六〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、八七万八六四〇円となる。弁護士費用は、九万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、九六万八六四〇円となる。

三原告高橋義治

1 同原告は、昭和四九年一一月ころ疾病に罹患し、その症状は級外程度のものであった。昭和四七年五月肝臓病の治療のために約一箇月間入院した。稼働することができないのは、肝臓病のためである。喫煙が症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一五〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費五九万六〇〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、九〇万四〇〇〇円となる。弁護士費用は、九万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、九九万四〇〇〇円となる。

四原告高橋和寿

1 同原告は、昭和四三年一二月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。二歳で罹患し、遺伝的素因を推測することができる。成長するにつれて、症状が軽快した。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を六〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金七〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費・児童補償手当三三四万三九三〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一九五万六〇七〇円となる。弁護士費用は、二〇万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二一五万六〇七〇円となる。

五原告高橋茂之

1 同原告は、昭和四七年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。一歳未満で罹患し、遺伝的素因を推測することができる。成長するにつれて、症状が軽快した。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を五〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金七〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費・児童補償手当二五一万二七〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一七八万七三〇〇円となる。弁護士費用は、一八万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一九六万七三〇〇円となる。

六原告秋葉広子

1 同原告は、昭和四三年秋ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。その後症状は悪化したことがあったが、昭和五三年まで八百屋で働いた。ハウスダスト・アレルギーがあり、小鳥・犬を飼っていた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一一〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費七二六万二四〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、二二三万七六〇〇円となる。弁護士費用は、二二万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二四五万七六〇〇円となる。

七原告穴見トモエ

1 同原告は、昭和四四年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。六七歳で罹患し、六八歳まで東起業株式会社で働いた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一〇〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費六五六万三一〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一九三万六九〇〇円となる。弁護士費用は、二〇万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二一三万六九〇〇円となる。

八小高宗彦

1 宗彦は、昭和四八年ころ肺気腫に罹患し、これによって昭和五〇年一二月二四日死亡した。昭和四八年夏(六五歳)まで働いた。喫煙が発症に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一五〇〇万円と算定するのが相当である。

2 宗彦は、補償一時金一〇〇万円及び昭和五〇年一二月二四日までの障害補償費一〇三万〇九〇〇円の給付を受け、遺族は、遺族補償金一三一三万〇六〇〇円の給付を受けた。右の合計額は一五一六万一五〇〇円となり、これはすべて1の損害の填補に充当されるべきものである。

そうすると1の損害は、すべて填補されたこととなる。

九芦野寅吉

1 寅吉は、昭和四五年ころ慢性気管支炎に罹患したが、そのころには既に高血圧症及び心臓病に罹患していた。寅吉の症状は二級程度のものであったが、それには心臓病によるものも含まれていた。喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。寅吉は、昭和五八年一一月七日心筋梗塞により死亡したが、これは被告の侵害行為に起因するものではなかった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を七五〇万円と算定するのが相当である。

2 寅吉は、補償一時金一五〇万円及び昭和五八年一一月七日までの障害補償費六〇八万三四〇〇円の合計七五八万三四〇〇円の給付を受けた。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

一〇原告谷内栄三郎

1 同原告は、昭和四八年秋ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。その症状は昭和四八年秋から冬にかけて最も悪かったというのであるが、昭和五〇年三月まで東亜外業株式会社で働いた。長期間にわたって溶接作業に従事したことが発症に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を八五〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費五九三万七四二〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一五六万二五八〇円となる。弁護士費用は、一五万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一七一万二五八〇円となる。

一一原告飯島緑香

1 同原告は、昭和四五年一二月ころ疾病に罹患し、その症状は級外程度のものであった。生後六箇月で罹患し、三歳の頃軽快したのに、昭和五一年九月非指定地域に転居して、症状が悪化した。ペニシリン・アレルギーがあった。成長するにつれて、症状が軽快した。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を三〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費・児童補償手当六〇万円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一四〇万円となる。弁護士費用は、一四万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一五四万円となる。

一二原告大倉キイ

1 同原告は、昭和四六年暮ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和四八年二月非指定地域に転居し、昭和五五年まで板金業の事務に従事した。喫煙が発症に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を五〇〇万円と算定するのが相当である。

2 宗彦は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費・療養補償金七二五万七八〇〇円の合計八二五万七八〇〇円の給付を受けた。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

一三原告白井さた子

1 同原告は、昭和四三年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和五四年二月から昭和五九年六月まで非指定地域に居住したが、症状に変化は見られなかった。僧帽弁狭窄症に罹患し、これによる症状が合併していた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を八五〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費四九四万八四八〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、二〇五万一五二〇円となる。弁護士費用は、二〇万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二二五万一五二〇円となる。

一四原告斉藤富与

1 同原告は、昭和四二年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。五六歳で罹患し、昭和四四年と四五年に症状が最も重かった。昭和四九年六月非指定地域に転居し、一時を除いて、症状が軽快した。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を八〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費・療養補償金四七九万五二二〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一七〇万四七八〇円となる。弁護士費用は、一七万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一八七万四七八〇円となる。

一五原告深山源次

1 同原告は、昭和三五年一一月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和四四年六月から茂原郵便局に勤務し、同年七月、一二月及び昭和五三年一月にいずれも発作のため入院して治療を受けたが、昭和五五年三月まで勤務した。発症の時期が早かった。体質的素因があった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一二〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費一二八一万三六〇〇円の合計一四三一万三六〇〇円の給付を受けた。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

一六原告塚原ふぢ

1 同原告は、昭和四八年ころ疾病に罹患し、その症状は二級ないし三級程度のものであった。昭和三五年ころ美容院の経営を三女に譲り、スーパー店の手伝いをしたり、孫の子守りなどをしていた。六二歳で罹患した。高血圧症による心疾患があり、これが症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を九〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費六六一万九九〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一三八万〇一〇〇円となる。弁護士費用は、一四万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一五二万〇一〇〇円となる。

一七原告唐橋由子

1 同原告は、昭和三九年横浜市で疾病に罹患し、昭和四三年一〇月本件地域に転居した後、昭和四七年ころから症状が増悪した。増悪後の症状は二級ないし三級程度のものであった。ハウスダスト・アレルギーがあり、小鳥を飼い続けた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一〇〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費七二四万〇六〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一七五万九四〇〇円となる。弁護士費用は、一八万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一九三万九四〇〇円となる。

一八飯島治郎

治郎は、昭和四七年五月肺気腫に罹患し、昭和四九年一一月三〇日慢性気管支炎患者と認定されたのであるが、右の疾病はいずれも被告の侵害行為に起因するものではなかった。したがって、治郎は、被告に対し損害賠償請求権を取得しなかった。

一九原告中野一枝

1 同原告は、昭和四五年一二月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。生後約一一箇月で罹患し、昭和四八年一〇月非指定地域に転居して、症状が軽快した。昭和五一年一一月三〇日以降は公害病患者の認定申請をしなかった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を二〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和五一年一一月二九日までの児童補償手当一二万円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、八八万円となる。弁護士費用は、九万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、九七万円となる。

二〇原告平山征夫

1 同原告は、昭和四五年五月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。生後約五箇月で罹患した。公害病患者の認定申請が遅かった。ハウスダスト・アレルギーがあった。昭和五五年と五六年に症状が最も重かったが、そのころの大気汚染濃度は以前よりも低くなっていた。昭和五八年ころから症状が軽くなった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を六〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金七〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費・児童補償手当三〇九万二九〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、二二〇万七一〇〇円となる。弁護士費用は、二二万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二四二万七一〇〇円となる。

二一原告福田有作

1 同原告は、昭和四〇年ころ疾病に罹患し、その症状は級外程度のものであった。六五歳で罹患し、昭和五〇年まで会社の顧問を続けていた。喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を三五〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費六〇万円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一四〇万円となる。弁護士費用は、一四万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一五四万円となる。

二二原告市原満津

1 同原告は、昭和四一年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。五四歳で罹患し、昭和四九年(六二歳)まで付添看護婦として働いた。アレルギー性鼻炎に罹患し、症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を七五〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費四五〇万〇九〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一九九万九一〇〇円となる。弁護士費用は、二〇万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二一九万九一〇〇円となる。

二三原告佐伯節子

1 同原告は、昭和四二年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和三五年三月肺結核に罹患し、右上葉切除術を受けた。本件地域に転居して、短期間のうちに罹患した。園芸業の手伝いをし、後にはこれを切り回していた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を八〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費四三〇万九五六〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、二一九万〇四四〇円となる。弁護士費用は、二二万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二四一万〇四四〇円となる。

二四原告小林寿子

1 同原告は、昭和四六年三月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和四五年七月本件地域に転居し、短期間で罹患した。アレルギー素因又は気道過敏症があり、これと喫煙が発症又は症状の増悪に影響を及ぼした。昭和五六年から約三年間焼肉店で働いたが、糖尿病に罹患して、これを辞めた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を八五〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費六三三万一七六〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一一六万八二四〇円となる。弁護士費用は、一二万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一二八万八二四〇円となる。

二五阿部作治

1 作治は、昭和三七年ころ気管支ぜん息又は慢性気管支炎に罹患し、昭和四七年ころ肺気腫に罹患して、昭和六一年二月一三日これにより死亡した。五五歳で前者に罹患し、昭和三八年初めころから仕事ができなくなった。喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を二八〇〇万円と算定するのが相当である。

2 作治は、補償一時金一五〇万円及び昭和六一年二月一三日までの障害補償費二〇二八万六九〇〇円の給付を受け、遺族は、遺族補償一時金四九七万八八〇〇円の給付を受けた。右の合計額は二六七六万五七〇〇円となり、これはすべて1の損害の填補に充当されるべきものである。これを1の額から控除すると、残額は、一二三万四三〇〇円となる。弁護士費用は、一三万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一三六万四三〇〇円となる。

二六原告平出きん

1 同原告は、昭和四六年一一月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。五六歳で罹患し、昭和四九年九月ころから昭和五九年一〇月ころまで時々症状が増悪した。高血圧症であり、心疾患があった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を九〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費五七二万一三八〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一七七万八六二〇円となる。弁護士費用は、一八万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一九五万八六二〇円となる。

二七原告丹羽信

1 同原告は、昭和四三年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和四一年六月本件地域に転居し、短期間で罹患した。夫とともに昭和五四年秋まで食料品店を経営した。喫煙及び夫からの受動喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を八〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費四三五万四六八〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、二一四万五三二〇円となる。弁護士費用は、二一万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二三五万五三二〇円となる。

二八原告板倉美作子

1 同原告は、昭和四三年一月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。五四歳で罹患し、六一歳になるまで生命保険会社で働いた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を七五〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費四〇六万九八六〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一九三万〇一四〇円となる。弁護士費用は、一九万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二一二万〇一四〇円となる。

二九原告卓宗とく

1 同原告は、昭和三九年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。五一歳で罹患し、七〇歳を過ぎても失業対策事業に出て働いていた。高血圧症であった。公害病患者の認定申請が遅かった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を七〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費四〇六万九八六〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一九三万〇一四〇円となる。弁護士費用は、一九万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二一二万〇一四〇円となる。

三〇原告北川ヤエ

1 同原告は、昭和三九年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。高血圧症と心臓疾患が合併していた。操業後比較的早い時期に発症し、軽症のまま推移した。アレルギー検査等を受けていなかった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一〇〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費七〇八万九九〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一四一万〇一〇〇円となる。弁護士費用は、一四万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一五五万〇一〇〇円となる。

三一原告薬師寺サム

1 同原告は、昭和三八年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和三四年一〇月本件地域に転居し、かつ、操業開始後比較的早い時期に罹患した。昭和五二年三月本件地域から転出したが、その後の症状に変化が見られなかった。喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。老人性白内障に罹患していた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を七五〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費五〇五万八一八〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、九四万一八二〇円となる。弁護士費用は、一〇万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一〇四万一八二〇円となる。

三二原告市川二夫

1 同原告は、昭和四六年夏ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和四八年春までアーク溶接の作業に従事し、昭和六一年九月まで配管業を継続していた。溶接作業及び喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一五〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費一五一七万〇一〇〇円の合計一六一七万〇一〇〇円の給付を受けた。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

三三原告浅沼佐代

1 同原告は、昭和三五年三月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。操業開始後早い時期に罹患した。昭和四九年六月から昭和五七年七月まで非指定地域に居住し、その後も昭和六〇年六月から非指定地域に居住しているが、症状が軽快しなかった。喫煙が症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を八〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費七〇一万四九〇〇円の合計八五一万四九〇〇円の給付を受けた。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

三四橋爪静男

1 静男は、昭和四七年初めころ気管支ぜん息に罹患したが、その症状は級外程度のものであった。七六歳で罹患した。喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。静男は、昭和六一年一月九日急性心不全により死亡したが、これは被告の侵害行為に起因するものではなかった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を四〇〇万円と算定するのが相当である。

2 静男は、補償一時金一五〇万円及び昭和六一年一月九日までの障害補償費五三万六〇〇〇円の給付を受け、遺族は、遺族補償金三九六万四〇〇〇円の給付を受けた。右の合計額は六〇〇万円となり、これはすべて1の損害の填補に充当されるべきものである。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

三五原告渡辺俊

1 同原告は、昭和四二、三年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和四〇年七月本件地域に転居し、早い時期に罹患した。遺伝的素因があった。猫を飼っていた。昭和三三年一一月から昭和五四年三月まで豆腐製造業を営み、その間昭和五〇年ころ小料理店を経営し、昭和五九年七月から清掃員として働いていた。昭和五〇年と五四年にぜん息の治療のため入院したが、昭和六〇年には肺炎、すい臓炎、胆石の治療のため入院した。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一一〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費七六一万四四〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一八八万五六〇〇円となる。弁護士費用は、一九万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二〇七万五六〇〇円となる。

三六大島花

1 花は、昭和三五年ころ慢性気管支炎に罹患したが、昭和四六年一二月急性肺炎を患い、遅くとも昭和四八年までに肺癌に罹患した。昭和二九年から昭和四九年二月まで平和湯で働いていたのであるから、慢性気管支炎の症状は三級程度のものであったと推認することができる。操業開始後早い時期に罹患した。喫煙が発症に影響を及ぼした。昭和五〇年三月六日肺癌により死亡したが、これは被告の侵害行為に起因するものではなかった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を六〇〇万円と算定するのが相当である。

2 花は、補償一時金一五〇万円及び昭和五〇年三月六日までの障害補償費一一万円の給付を受け、遺族は、遺族補償一時金八六万七六〇〇円及び遺族補償金六五二万二四〇〇円の給付を受けた。右の合計額は九〇〇万円となり、これはすべて1の損害の填補に充当されるべきものである。

そうすると1の損害は、すべて填補されたこととなる。

三七原告秋山雅史

1 同原告は、昭和四六年中に疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。非指定地域において罹患し、昭和四八年四月本件地域に転居して、症状が増悪した。小学校四年生から六年生までの症状が最も重く、中学校二年生から症状が軽快した。ハウスダスト・アレルギーがあり、非指定地域で猫を飼っていた。公害病患者の認定申請が遅かった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を三〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費・児童補償手当一〇七万二四〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一九二万七六〇〇円となる。弁護士費用は、二〇万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二一二万七六〇〇円となる。

三八原告井形亜矢子

1 同原告は、昭和四三年秋ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。小学校四年生から六年生まで下志津病院に入院し、治療を受けながら授業を受けた。昭和五三年夏に発作が起きて、約一〇日間入院した。昭和五八年からスナックで働いた。ハウスダスト・アレルギーがあった。自らの喫煙及び受動喫煙が症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を七〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費・児童補償手当四一二万八五〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一八七万一五〇〇円となる。弁護士費用は、一九万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二〇六万一五〇〇円となる。

三九原告石渡鶴

1 同原告は、昭和三五年一月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。操業開始後早い時期に罹患した。昭和四六年一〇月に一晩だけ入院し、市条例等による公害病患者の認定申請をしなかった。六四歳で認定を受けた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を八〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費六四八万二四〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一五一万七六〇〇円となる。弁護士費用は、一五万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一六六万七六〇〇円となる。

四〇原告伊藤一男

1 同原告は、昭和四〇年ころ慢性気管支炎に罹患し、昭和五二年一一月ころ肺気腫に罹患した。昭和二二年ころから昭和四六年まで失業対策事業に従事し、同年から昭和五一年まで土木会社に勤務し、昭和五三年まで清掃夫として働いた。このことから見て、症状はいずれも三級程度のものであったと推認することができる。職場環境と喫煙が発症に影響を及ぼした。昭和五六年から入院する期間が著しく増加した。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一三〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費一二六八万四六八〇円の合計一四一八万四六八〇円の給付を受けた。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

四一原告大井一郎

1 同原告は、昭和五一年一二月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。五一歳で罹患し、比較的軽症であった。喫煙が発症に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を七〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費六八五万七三一〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一四万二六九〇円となる。弁護士費用は、二万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一六万二六九〇円となる。

四二原告片桐民平

1 同原告は、昭和三四年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和四五年ころまで指圧業を続けた。昭和四六年ころから症状が重くなり、二級程度のものとなった。操業開始後早い時期に、六〇歳で罹患した。喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。昭和五四年ころ老人性痴呆の兆候が見られた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一五〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費一八七八万三八〇〇円の合計二〇二八万三八〇〇円の給付を受けた。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

四三原告片桐みつ子

1 同原告は、昭和三五、六年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。操業開始後早い時期に、五〇歳位で罹患した。昭和四六年まで家政婦として働いた。昭和四九年ころからその症状が二級程度のものとなった。老人性痴呆に罹患し、昭和五四年(六九歳)ころにはその症状がかなり進行していた。昭和六〇年一一月から特別養護老人ホームに入園した。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一〇〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費六六一万九九〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一八八万〇一〇〇円となる。弁護士費用は、一九万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二〇七万〇一〇〇円となる。

四四原告西藤陽一

1 同原告は、昭和四一年九月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。一歳で罹患したが、九歳になるまで公害病患者の認定申請をしなかった。ハウスダスト・アレルギーがあり、昭和五二年から猫を飼っていた。昭和五六年四月ころから症状が軽快し、昭和五九年四月に就職した。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を四〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金七〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費・児童補償手当二二四万三四八〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一〇五万六五二〇円となる。弁護士費用は、一一万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一一六万六五二〇円となる。

四五原告鈴木いさ

1 同原告は、昭和四五年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。五六歳で罹患し、昭和五一年一月まで公害病患者の認定申請をしなかった。格別の検査を受けたことがなく、軽い症状であった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を六〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費三八七万九九〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、二一二万〇一〇〇円となる。弁護士費用は、二一万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二三三万〇一〇〇円となる。

四六原告角田スミ江

1 同原告は、昭和三五年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。操業開始後早い時期に罹患した。昭和四九年四月に五八歳で公害病患者に認定された。投薬を受けて、症状が軽快した。喫煙が発症に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を七〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費四一五万一七〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一八四万八三〇〇円となる。弁護士費用は、一九万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二〇三万八三〇〇円となる。

四七原告露崎留吉

1 同原告は、昭和五一年一月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。六〇歳で罹患し、昭和六〇年一〇月当時も働いていた。喫煙が発症に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を五〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費五四七万四五二〇円の給付を受けた。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

四八原告富塚忠幸

1 同原告は、昭和四九年秋ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和四九年二月本件地域に転居し、短期間で罹患した。ハウスダスト・アレルギーがあった。小学校二年生で公害病患者の認定を受け、中学校に入学した後は症状が軽快した。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を三〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費・児童補償手当一八三万五八二〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一一六万四一八〇円となる。弁護士費用は、一二万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一二八万四一八〇円となる。

四九原告中島澄行

1 同原告は、昭和五〇年一二月ころ疾病に罹患し、その症状は級外程度のものであった。うがい薬とせき止めの薬を使用していたに過ぎなかった。中島電機工業所、中島興業株式会社等を経営し、事業を拡大していた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を三〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費四〇三万一七二〇円の給付を受けた。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

五〇中野忠成

1 忠成は、昭和四六年冬ころ軽い症状の気管支ぜん息に罹患した。昭和四一年九月から昭和五六年三月まで鴻池運輸株式会社千葉支店に勤務し、同年六月から昭和五八年二月(六〇歳)まで千代田興業株式会社千葉営業所に勤務した。喫煙が症状の増悪に影響を及ぼした。昭和五九年七月二八日肝硬変により死亡したが、肝臓の障害及びこれによる死亡は、被告の侵害行為に起因するものではなかった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を六〇〇万円と算定するのが相当である。

2 忠成は、昭和五九年七月二八日までの障害補償費七九七万一〇〇〇円の給付を受けた。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

五一原告名取キクノ

1 同原告は、昭和四七年ころ疾病に罹患し、その症状は級外程度のものであった。喫煙、蓄膿症及び扁桃腺炎が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を三〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費六〇万円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一四〇万円となる。弁護士費用は、一四万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一五四万円となる。

五二原告丹羽芳子

1 同原告は、昭和三一年ころ疾病に罹患し、その症状は級外程度のものであった。操業開始後早い時期に、三四歳で罹患した。昭和三三年まで千葉製鉄所で働き、昭和三八年から昭和五二年五月までつかだ食料品株式会社と赤坂中央軒株式会社で働いた。公害病患者の認定申請が遅かった。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を九〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費七一九万六一〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一八〇万三九〇〇円となる。弁護士費用は、一八万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一九八万三九〇〇円となる。

五三原告長谷川憲三郎

1 同原告は、昭和四九年二月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和五〇年四月公害病患者の認定申請をした。同年六月まで株式会社藤田組川鉄事業所に勤務し、その後川鉄化学で働いた。昭和五三年夏(七一歳)ころ呼吸困難に陥り、入院して治療を受けた。症状は二級程度のものとなった。喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一〇〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費九一九万三六五〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、八〇万六三五〇円となる。弁護士費用は、八万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、八八万六三五〇円となる。

五四原告花沢誠

1 同原告は、昭和五〇年九月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。生後六箇月で罹患した。三歳までの間が最も悪く、五歳ころから少しずつ良くなって、八歳(昭和五八年)ころにはせきもたんもほとんど出なくなった。昭和五八年春非指定地域に転居した。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を二〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの児童補償手当七九万九二〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一二〇万〇八〇〇円となる。弁護士費用は、一二万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一三二万〇八〇〇円となる。

五五原告林正樹

1 同原告は、昭和四八年春ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和四六年暮ころ本件地域に転居し、早い時期に四歳余りで罹患した。昭和五〇年三月公害病患者の認定申請をした。昭和五三年四月ころから軽快に向かい、昭和五六年四月(中学校一年生)ころから大分良くなった。ハウスダスト・アレルギーがあった。母からの受動喫煙が症状の増悪に影響を及ぼした

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を三〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費・児童補償手当一九四万一四四〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一〇五万八五六〇円となる。弁護士費用は、一一万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一一六万八五六〇円となる。

五六原告坂東茂

1 同原告は、昭和四四年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。五七歳で罹患した。昭和四八年九月まで東亜外業株式会社で働き、昭和五〇年まで昭和電工株式会社で働いた。入院したことがなかった。職業環境及び喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一〇〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一五〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費一五三九万九〇〇〇円の合計一六八九万九〇〇〇円の給付を受けた。

そうすると、1の損害は、すべて填補されたこととなる。

五七原告矢口ヨシ江

1 同原告は、昭和四八年暮ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。昭和四七年一〇月本件地域に転居し、短期間で罹患した。昭和四九年秋ころから食堂を経営し、昭和五〇年五月公害病患者の認定申請をした。昭和五三年五月非指定地域に転居し、症状が幾らか軽快したが、昭和五四年船橋市に転居して、症状が悪化した。アレルギーがあり、これが発症に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を六〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費四八五万九九〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一一四万〇一〇〇円となる。弁護士費用は、一二万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一二六万〇一〇〇円となる。

五八原告矢田部コト

1 同原告は、昭和四五年月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。五二歳で罹患した。昭和四六年一月肺炎に罹患して、入院した。昭和四八年秋ころから今井町診療所に通い始め、昭和四九年四月公害病患者の認定申請をした。昭和五三年中に約一箇月間入院した。喫煙及び体質的素因が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。昭和五五年一一月非指定地域に転居した。症状はその後も悪化した。昭和四九年以降も不動産業に従事していた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を九〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費六七一万三四六〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一二八万六五四〇円となる。弁護士費用は、一三万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一四一万六五四〇円となる。

五九原告吉永春寿

1 同原告は、昭和四三年ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。五〇歳で罹患した。症状は昭和四五、六年に最もひどかったが、昭和四八年三月公害病患者の認定を受け、昭和五一年まで働いた。喫煙が発症に影響を及ぼした。昭和五七年に肝臓の検査と治療のため約一箇月間入院した。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を七〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費四二〇万八九四〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、一七九万一〇六〇円となる。弁護士費用は、一八万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、一九七万一〇六〇円となる。

六〇原告渡辺なつ

1 同原告は、昭和四六年ころ慢性気管支炎に罹患し、昭和四八年春ころ肺気腫に罹患した。五八歳で肺気腫に罹患した。六二歳で肺炎に罹患して、四三日間入院し、六五、六歳の時にも肺炎で四三日間入院した。肺気腫で入院したことを認めるに足りる証拠はないのであるが、その症状は二級程度のものであったと見ることができる。喫煙が発症及び症状の増悪に影響を及ぼした。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を一〇〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、補償一時金一〇〇万円及び昭和六二年五月分までの障害補償費六八五万一五〇〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、二一四万八五〇〇円となる。弁護士費用は、二一万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二三五万八五〇〇円となる。

六一原告桑田清次郎

1 同原告は、昭和四六年八月ころ疾病に罹患し、その症状は三級程度のものであった。六一歳で罹患した。昭和五二年一二月に六七歳で公害病患者の認定申請をした。昭和四六年九月から昭和五二年一〇月まで通院したことがなく、同年一一月以降でも入院したことがなかった。昭和五〇年まで米穀商を営んでいた。

その他諸般の事情を考慮し、その包括慰謝料を八〇〇万円と算定するのが相当である。

2 同原告は、昭和六二年五月分までの障害補償費七七九万一九五〇円の給付を受けた。これを1の額から控除すると、残額は、二〇万八〇五〇円となる。弁護士費用は、二万円をもって相当と認める。

3 したがって、損害額は、二二万八〇五〇円となる。

第三消滅時効

一大気汚染防止法二五条の四は、同法二五条一項に規定する損害賠償請求権は、「被害者又はその法定代理人が損害及び賠償義務者を知った時から三年間行なわないときは、時効によって消滅する。」と規定し、民法七二四条前段も同じ趣旨を規定している。

昭和五〇年(ワ)第三二二号事件の原告らが昭和五〇年五月二六日に本件訴訟を提起し、昭和五三年(ワ)第二七五号事件の原告らが昭和五三年四月一七日に本件訴訟を提起した事実は、いずれも記録上明らかである。

二被告は、目録一四消滅時効一覧表の「時効進行開始時」欄記載の各年月日から、又は「(二次的)時効進行開始時」欄記載の各年月日から、それぞれ原告らの損害賠償請求権の消滅時効が進行を始めたと主張する。

そして、<証拠>によれば、千葉市ばい煙等影響調査会の作成に係る「千葉市における呼吸器症状有症率調査報告書」(四七年BMRC調査)が昭和四七年三月に公表されて、その要旨及びこれに関する論評が同月八日の読売新聞によって報道された事実を認めることができ、また、原告らが右の「(二次的)時効進行開始時」欄記載の各年月日(ただし、原告稲葉正については昭和四七年五月二一日)に市条例によって本件疾病に罹患した者と認定された事実は既に記載したとおりである。

三しかし、被告の侵害行為は一過性のものでなく、千葉製鉄所の操業に伴い間断なく継続してきたものと見るべきであって、これによる本件疾病の発症、継続及び健康被害も相当期間にわたる大気汚染物質の集積によってもたらされたものと見るのが相当である。

したがって被告が行った侵害行為と、患者原告ら及び死亡患者らが被った健康被害との間には、時間的に一対一の対応として割り切ることのできない関係があるのであるから、被告の侵害行為については、目録九及び一〇の各一覧表の各「侵害行為」欄記載の各始期から終期までを通じて、被害者ごとに連続した一個の不法行為に当たるものと見るのが相当であり、患者原告ら及び死亡患者らの健康被害についても、被害者ごとに包括して一個の損害に当たるものと見るのが相当である。

そうすると、被告の主張する各年月日をもって消滅時効の起算日とするのは相当でない。

四また、「損害ヲ知リタル時」とは、被害者らが「加害行為と損害との間の相当因果関係を知った時」を意味するものと解すべきであり、「加害者ヲ知リタル時」とは、「加害者に対する賠償請求が事実上可能な状況のもとに、その可能な程度にこれを知った時」を意味するものと解するのが相当である(最高裁判所昭和四八年一一月一六日第二小法廷判決)ところ、原告らが四七年BMRC調査の結果を新聞で知り、市条例によって公害病患者に認定されたとの事実だけから、「原告らが、被告主張の日に被告の不法行為と各人の損害との間に相当因果関係があることを知り、被告に対する賠償請求が可能であることを知った。」との事実を推認することはできないし、他に右の事実を認めるに足りる証拠はない。

五したがって、被告の消滅時効の主張は失当であり、これを採用することはできない。

第九章結論

結論は、次のようになる。

第一排出差止請求

差止原告らの排出差止請求は、いずれも不適法なものであるから、その訴えをいずれも却下すべきである。

第二操業差止請求

差止原告らの操業差止請求は、いずれも不当なものであるから、その請求をいずれも棄却すべきである。

第三損害賠償請求

一小高宗彦、芦野寅吉、飯島治郎、橋爪静男、大島花及び中野忠成は、いずれも被告に対して損害賠償請求権を取得するに至らなかったものというべきであるから、その訴訟を承継した原告ら及び原告新沼八重子は、いずれも損害賠償請求権を相続するに至らなかったものである。

原告大倉キイ、同深山源次、同市川二夫、同浅沼佐代、同伊藤一男、同片桐民平、同露崎留吉、同中島澄行及び同坂東茂は、いずれもその損害が填補されたのであるから、被告に対する損害賠償請求権を取得するに至らなかったものというべきである。

したがって、右の原告らの損害賠償請求は、いずれも不当なものであるから、いずれもこれを棄却すべきである。

二原告阿部松枝は、阿部作治が取得した損害賠償請求権を相続したのであるから、その損害賠償請求は、被告に対し、一三六万四三〇〇円及びこれに対する作治の死亡の日の昭和六一年二月一三日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において正当であり、これを認容すべきであるが、その余の部分は不当であるから、これを棄却すべきである。

本文別紙損害賠償請求者目録記載の第一認容の部の原告らの損害賠償請求は、「原告氏名」欄記載の原告らが、被告に対し、各名下の「認容額」欄記載の各金員及びこれに対する口頭弁論終結時の昭和六二年五月二七日から各支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による各遅延損害金の支払を求める限度においていずれも正当であり、いずれもこれを認容すべきであるが、その余の部分はいずれも不当であるから、いずれもこれを棄却すべきである。

第四訴訟費用の負担

訴訟費用は、民事訴訟法八九条、九二条本文及び九三条一項ただし書の各規定を適用して、敗訴の当事者に連帯して負担させる。

第五仮執行の宣言

一民事訴訟法一九六条一項の規定を適用して、損害賠償請求の各認容部分につき、いずれも仮執行の宣言を付す。

二同法一九六条三項の規定による仮執行の免脱の宣言は、これを付さないこととする。

そこで、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官加藤一隆 裁判官今泉秀和 裁判官小野洋一)

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